【第1幕】雨の匂いに溺れる──「台風の夜、公園で私は誰にも属していなかった」
夫に触れられなくなって、どれくらい経ったのだろう。
私の身体は、たしかに日々を生きていた。けれど、
肌の奥、粘膜の深い場所だけが、何かを求めて渇いていた。
台風が上陸したのは夕方だった。
強風は家々をきしませ、窓ガラスを叩く雨音が、夜の静けさをじゅるじゅると舐め回していた。
テレビのニュースは何度も「不要不急の外出は控えて」と繰り返していたけれど、
私の身体の中では、逆の言葉が渦を巻いていた。
「ちょっと、外の様子見てくるね」
私はそう言った。
夫はうつろな目でスマートフォンを見つめながら、曖昧に頷いただけだった。
その沈黙が、私の背中を押した。
下着は着けなかった。
身体に吸いつくようなワンピース一枚。
窓を開けた瞬間、風がその薄布を巻き上げ、背中から太ももにかけて、
まるで見えない誰かの手が撫でるように触れていった。
外は、誰もいないはずだった。
だからこそ──私は“誰かに見られたかった”。
ヒールの音が、濡れた歩道に吸い込まれていく。
風の合間に、雨が斜めに叩きつけてくる。
けれど私は、傘を開かなかった。
この濡れ方を、私の身体に刻みつけておきたかったから。
公園に着いたころには、髪も肌も、すっかり濡れていた。
白いワンピースは、肌にぴったりと貼りつき、
胸のかたちも、脚の輪郭も、まるで“脱いでいる”よりも淫らだった。
──ベンチに腰を下ろす。
冷たい水が、下着を着けていない股間にじわりと染みた。
私は足を揃え、膝を閉じ、濡れたまま、じっと座っていた。
“見られる私”を、誰かが見つけてくれるのを待つように。
「……こんばんは」
風の音に紛れて、低い声が耳に入った。
振り向くと、滑り台の下に、ひとりの男の子が立っていた。
濡れた前髪、白いTシャツ、そして、
こちらをまっすぐに見つめる、あまりにも熱を帯びた瞳。
年下だと、すぐにわかった。
けれどその視線は、私の濡れた胸元や太ももを“じっと見つめる”ことを、
一切ためらっていなかった。
その視線が、私の内側の粘膜を、そっと舐めた。
「雨……強いですね」
彼の声は震えていなかった。
けれど、わかっていた。彼もまた、もう戻れない場所に足を踏み入れていた。
私は黙って、ベンチの隣に空間を作った。
それは“ここに座って”という命令ではなかった。
ただ──“ふたりで濡れてもいい”という、沈黙の誘いだった。
彼は座った。
そして、脚が触れ合った。
ほんの少しだけ、でも確かに。
その一瞬。
私は、既婚者でも、妻でも、誰かのものでもなくなった。
ただ、“濡れた女”になっていた。
【第2幕】傘を持たないふたり──「沈黙のまま、濡れながら家へ」
私たちは、何も言わずに立ち上がった。
彼が座っていた部分のベンチに残った、水のかたち。
そこに、彼の体温がまだ沈んでいた気がした。
傘は、誰も持っていなかった。
持つべきものを選ばなかったのか、最初から、選べなかったのか──
ふたりの身体は、雨に委ねられるしかなかった。
私は一歩、歩き出した。
ヒールが水たまりに沈むたび、ワンピースの裾が揺れて肌を撫でる。
背後から、一定の距離で彼の足音がついてくる。
──ぴしゃ、ぴしゃ。
その音が、まるで彼の吐息のように、私の背中にまとわりつく。
夜の公園を出たあたりで、風が強くなった。
ワンピースが煽られ、太ももまであらわになる。
私はスカートの裾を抑えるふりをして、片足を少し引いた。
すると、彼の靴の先が、私の踵に、かすかに触れた。
振り返らない。
見つめない。
ただ、この距離と沈黙の中で、すべてが交わっていた。
歩きながら、私は自分の身体の変化に気づいていた。
内腿がこすれるたび、ぬるんとした感触があった。
冷たい雨に濡れているはずなのに、そこだけ、熱が滲んでいた。
もう、すべてが音を失っていた。
雨音と風だけが、このふたりの背徳を洗い流すように降り注いでいた。
──やがて、マンションが見えた。
私は立ち止まり、初めて振り返った。
その瞬間、彼の目と目が合った。
言葉は、ひとつも交わさなかった。
けれど、そこには明確な“選択”があった。
私は、何も言わずにオートロックの扉を開けた。
中に入ってからも、振り返らない。
ヒールの音だけが、静かに階段をのぼっていく。
足音は、少し遅れて、続いてきた。
ふたりとも、声を使う必要がなかった。
欲望に言語はいらなかった。
雨にすべてを預けた身体だけが、真実だった。
部屋の前で立ち止まる。
私は鍵を差し込んだまま、
濡れた髪を耳にかけ、彼のほうを見上げた。
──どうする?
言葉にしなかったその問いかけが、
まるで身体の奥で共鳴するように伝わった。
彼は一歩、近づいてきた。
もう、ワンピースの濡れた輪郭に視線を隠そうともしない。
私の身体を“見る”のではない、
“感じている”ようなまなざしだった。
私はドアノブに手をかける。
そして──
扉が、静かに開いた。
【第3幕】許されるように濡れる──「崩れていく音を、肌で聞いた夜」
扉が閉まったとき、私の中の“常識”という名の外皮が、
静かに、音を立てずに剥がれ落ちていった。
部屋の中は薄暗かった。
雨に濡れた身体が冷えているはずなのに、
なぜか心拍だけが、焼けるように熱を放っていた。
彼は何も言わず、ただ立ち尽くしていた。
濡れたTシャツがぴたりと肌に張りつき、胸の起伏をあらわにしている。
そのまなざしは、まるで祈るようでいて、
同時に、飢えた獣のようだった。
私は、ゆっくりと背を向けた。
そして、肩にかかった濡れた髪をひと束、指に絡め、
首すじを露わにするように持ち上げた。
「……タオル、いる?」
その問いかけは、声というより、吐息に近かった。
背後で、わずかに靴が床を擦る音。
それだけで、私の太ももが内側から濡れていく。
私は振り返らなかった。
けれど──
背中に、温度のちがう指先が触れた瞬間、
喉の奥で、小さな音がこぼれた。
「……ん」
それは甘えでも拒絶でもない、
ただ、“壊れていく私”の最初の音だった。
彼の指は、濡れたワンピースの背中のラインをゆっくりとなぞる。
ファスナーを下ろすでもなく、乱暴に剥ぐでもない。
ただ、まるで私の皮膚そのものに話しかけるような、
“確かめる触れ方”だった。
裾がわずかにめくれ、
脚の内側に指がかすめる。
一瞬、身体がびくっと跳ねた。
でも逃げなかった。
逃げたら、もう私は、“女”ではいられなかったから。
ワンピースが、ゆっくりと重力に従って落ちる。
胸が露わになったとき、私は腕で隠さなかった。
下着も着けていなかったから、
“見られる”ことが、すでに行為の一部になっていた。
彼が私の前に立つ。
ふたりの間には、呼吸の摩擦しかない。
それが、震えるほど、熱かった。
私は手を伸ばし、彼のTシャツの裾に指をかけた。
濡れた布がはじけるように肌から剥がれ、
若い肌の体温が一気に部屋の空気を変えた。
──次の瞬間、
身体が、重なる。
ではなく、沈む。
ベッドではなかった。
リビングの床、毛足の短いラグの上。
そこに、雨と熱と湿度が、沈んでいく。
彼の唇が、私の鎖骨に触れたとき、
私はすでに、喘ぎ声を飲み込んでいた。
吐息が肌に触れ、
舌が喉元をなぞり、
指が乳房の下をすくい上げたとき、
胸の先端は、もう何もしていないのに
濡れて、立ち上がっていた。
「……こんな……」
言いかけて、言葉にならなかった。
声にしてしまえば、すべてが“現実”になる。
この夜を、夢にしておきたかった。
でも、
指が私の脚の間に触れた瞬間──
その“現実”は、脈打つように溢れ出してきた。
彼は何も言わないまま、
身体の下から、私の腰を持ち上げた。
膝を曲げ、腿を開くように導かれた瞬間、
私の脚は、彼の身体に、“自ら絡みついた”。
拒む理由は、もうどこにもなかった。
というより、
拒むという概念さえ、私の中から抜け落ちていた。
──音が、した。
身体の奥で、小さく、濡れたような音。
それが、私の理性が“崩れていった”合図だった。
あとはもう、
濡れるたび、
触れるたび、
求めるたび、
私は、私でなくなっていった。
ただ、“許されるように”
彼の中で、ひとつ、またひとつと
絶頂が崩れていった。
最後、息が吸えなかった。
声も出せなかった。
ただ、両脚が勝手に閉じて、
指先が床をつかんで、
口の奥で、彼の名も知らぬ少年の名を、
叫ばずに、震わせていた。
【終章】
朝が来るまで、声を失くしたまま──「濡れた記憶だけが、私の中に残っていた」
──どれくらい経ったのだろう。
身体が、動かなくなっていた。
それは疲労ではなく、余韻の中でしか呼吸できない身体になってしまったから。
息を吸うたびに、肺がかすかに震える。
腰の奥、足の付け根、首すじ、
さっきまで彼の指が触れていた場所が、すべて熱を宿したまま残っている。
彼は、何も言わなかった。
私も、言葉を探そうとしなかった。
代わりに、
ふたりのあいだには、雨音の残響と、
肌と肌が触れていた湿度だけが、確かに漂っていた。
私は横たわったまま、
天井を見上げた。
薄明かりがカーテン越しに揺れていて、
この夜がまだ“終わっていない”ことを、静かに告げていた。
となりにいる彼の体温が、
やけに遠く感じられた。
さっきまであれほど深く繋がっていたのに──
今はもう、**“言葉を交わせば終わってしまう距離”**になっていた。
私は、そっと片腕を伸ばした。
濡れたラグの上に置かれた、彼のTシャツに触れた。
その冷たさが、夢と現実を曖昧にする。
「……帰る?」
やっと絞り出したその声は、
自分のものとは思えないほど、かすれていた。
けれど、そのたった一言だけで、
この夜が、“終わる”とわかってしまった。
彼は頷いた。
そして、何も言わずに、立ち上がった。
濡れたTシャツをかぶり、短パンの裾を直し、
ドアの方へと歩いていくその後ろ姿を、私は黙って見送った。
ふたりのあいだには、連絡先も、名前すら交わされていなかった。
けれど、彼の指先と舌と、瞳と沈黙が、
私の身体の奥の奥に、消えない痕を刻みつけていた。
扉が、静かに閉まる音。
雨が、再び窓を叩き始める音。
そして、
自分の中にぽつんと残された“濡れた記憶”の音。
私は、脚を閉じたまま、横になっていた。
声も、動作も、何も発さずに、
ただ、自分の奥にまだ残る熱だけを感じながら──
朝が来るまで、
ひとりで、眠らずに、濡れていた。



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