寝取られの館11 ~ダッチワイフにされた妻~ 幾野まち
『寝取られの館』最新作は、幾野まちの繊細な演技と長江監督の映像演出が絶妙に溶け合う心理ドラマ。
最初は純粋で少し不安げな妻が、環境と出会いによって徐々に変化していく姿は圧巻。
表情、仕草、息遣いのひとつひとつが物語になっており、ラストの余韻には思わず息を呑む。
欲望よりも「人の心の境界」を描いた、シリーズ屈指の完成度を誇る一本。

夜が終わりきらない時間がいちばん好き。
東北の海沿いの町に引っ越してから、私はよく台所の窓辺でその瞬間を待つようになった。
空と海の境目がまだ見えないうちに、波の音がゆっくりと呼吸を始める。
私は三十九歳。
夫はこのところ出張が多く、家の中にあるものすべてが少しずつ静まり返っていく。
それはまるで、私の中の音まで吸い取られていくようだった。
コーヒーを淹れ、カップを唇に近づける。
苦味の奥に、少しだけ鉄のような香りがした。
潮の匂いが混ざった空気のせいかもしれない。
それでも私は、そこに“何か”を感じていた。
窓を開けると、冷たい風が髪を揺らす。
その瞬間、背中にぞくりとした感覚が走った。
風のせいにしたかった。けれど違った。
あれは、自分の中に潜んでいた熱がふいに顔を出したのだと思う。
鏡の中の私は、いつもより少しだけ違って見えた。
肩の曲線、鎖骨の下の陰影、
それらが、まるで知らない女の身体のようで。
そしてその女が、私の心を覗き返していた。
「どうして、そんな目で私を見るの」
小さく呟くと、鏡の中の私は微笑んだ。
まるで、長い眠りから覚めた誰かのように。
自分の心がどこへ向かおうとしているのか、まだ掴めない。
けれど確かに、私の中に何かが動き始めている。
夜、電気を消してベッドに横たわると、外から波の音が聞こえてくる。
その繰り返しが、まるで心臓の鼓動と重なっていた。
私はそのリズムを数えるように呼吸を整える。
けれど、数えるほどに息が乱れていく。
夫がいない夜の部屋は、静かすぎて危うい。
冷たいシーツが肌に触れるたび、
その白さの中に、自分の体温だけが浮かび上がる。
「私、何をしているんだろう」
そう呟きながらも、指先はじっとしていられなかった。
自分の輪郭を確かめるように、肩から腕、そして胸へと触れていく。
それは慰めではなく、確認だった。
まだ、私はここに生きているという。
外では風が鳴き、カーテンが揺れる。
そのわずかな隙間から差し込む光が、床に細い線を描いた。
私はその光を見つめながら、
知らない誰かの視線を感じるような錯覚に陥っていた。
そして、その錯覚が少しずつ心地よくなっていく。
怖いほどに。
夜が溶けていく音で目が覚めた。
窓の外には、まだ湿った風が漂っている。
潮の匂いが、昨夜の夢の続きのように部屋を満たしていた。
私はベッドの上で身体を起こす。
背中にシーツの跡が残っていて、指でなぞると、
その感触がまるで誰かの手の温もりのように感じられた。
鏡の前に立つと、昨夜の自分がまだそこにいた。
髪は乱れ、頬はわずかに紅く、
胸の奥では何かがまだ静かに脈打っている。
私はその鼓動に耳を澄ませた。
夫でもない、誰かの声が聞こえた気がした。
けれど、それは他人ではなかった。
あれは、長いあいだ沈黙していた私自身の声だった。
「もう、怖くないの?」
鏡の中の私が問いかける。
怖くなかった。
むしろ、ようやく“自分”という名の肌を手に入れた気がした。
誰かに見られたい、触れられたいと思う心さえも、
恥ではなく、生命の証のように感じられた。
カーテンの隙間から朝の光が差し込む。
それが肌に触れた瞬間、私はそっと目を閉じた。
光が、まるで指のように頬を撫でていく。
それは何よりも柔らかく、
何よりも深く、
そして、何よりも真実に近い愛撫だった。
この体験をどう言葉にすればいいのか、いまだにわからない。
けれどあの夜、私は確かに、
自分の中にもうひとりの“私”がいることを知った。
欲望は、堕落ではない。
それは、生きることそのものに向かう熱だ。
そして今も時々、朝の光に包まれるたびに思う。
――あの夜、私はようやく、
女として、ひとりの人間として、目を覚ましたのだ。
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