こんなおばさんだけど、本当に私でいいの…? ~職場の若者と無我夢中の不倫性交~ 田中美矢
夫の不在、満たされない日常、そして若い同僚との出会い——その過程が丁寧に描かれており、観る者は次第に登場人物の心の動きに引き込まれていく。
彼女が「女性」としての自分を取り戻していく姿には、切なさと美しさが同居している。
静かな映像の中に、抑えきれない感情の熱が宿る作品。
【第1部】指先が触れるたび、心が鳴った──雨の午後のオフィスで
夫が大阪へ赴任して、もう三年が過ぎた。
最初のころは毎晩のように電話をしたけれど、いつからだろう、会話が天気の話だけになったのは。
寂しい、という言葉を口にするのが、だんだん怖くなった。
言ってしまえば、自分が弱い人間になる気がしたからだ。
私は神奈川の小さな営業所で事務をしている。
昼過ぎのオフィスは静かで、蛍光灯の音だけが時間を刻んでいる。
カップの紅茶から上がる湯気を眺めながら、いつも思う。
人のぬくもりって、どんな形をしていたっけ、と。
そのときだった。
「村上さん、この書類、ちょっと見てもらっていいですか?」
振り返ると、野上くんが立っていた。
入社してまだ二年目の彼は、素直で、どこか子どものような笑顔を見せる。
けれど、ふとした瞬間に見せる真剣な横顔に、私は何度か言葉を失ったことがある。
「いいわよ、そこに置いて」
そう言って手を伸ばしたとき、指先が彼の手の甲にかすかに触れた。
一瞬だけ、体の奥に電流のようなものが走った。
何でもないはずの接触なのに、なぜこんなにも記憶に残るのだろう。
夕方になると、雨が降り出した。
帰り支度をする人たちの声を聞きながら、私は残業を理由に席を立たなかった。
外の雨音が、まるで胸の中のざわめきを代弁しているようだった。
窓の外を見つめるふりをして、私はずっと感じていた。
あの若い手の温度が、まだ指先に残っていることを。
翌朝、会社の窓から射し込む光がやけに眩しく感じた。
昨夜の雨が嘘のように晴れ、街は洗われたように静かだった。
私は机に着きながら、パソコンを立ち上げる手を止めた。
画面に映る自分の顔が、少しだけ柔らかく見えたのだ。
まるで、誰かに見つめられているような気配があった。
午前十時、野上くんが隣のデスクにやってきた。
「昨日の書類、ありがとうございました。助かりました」
笑うその声が、思いのほか近くて、呼吸が乱れる。
香水でも整髪料でもない、若い男の体の匂いが微かに漂った。
記憶の奥で、忘れていた何かがふっと目を覚ますようだった。
「いえ、たいしたことしてないから」
そう言いながら、私は書類を受け取るふりをして目を逸らした。
彼の指先が私の手の甲をかすめる。
昨日の感触が、またよみがえる。
体の奥が、静かに疼いた。
昼休み、給湯室で湯を注いでいると、背後から彼の声がした。
「村上さんって、いつも落ち着いてますよね」
「そう見える?」
「はい。でも…たまに、遠くを見てる気がするんです」
彼は少し照れくさそうに笑った。
その一言に、心臓の奥が跳ねた。
私はただ、湯気の向こうに霞む彼の横顔を見つめていた。
午後、外は再び曇り始めた。
風に揺れるブラインドの音が、心の奥のざわめきと重なっていく。
理性は、何も起こっていないと言い聞かせる。
けれど、心は確かに知っていた。
誰かに「触れたい」と思う気持ちは、いったん芽生えると、もう元には戻れないということを。
【第2部】夜の窓に映る私──理性と欲望のあわいで
夜、帰宅すると部屋の空気が冷たかった。
夫のいない家は、時計の音がやけに大きく響く。
カーテンを閉める手を止めて、私は窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
少し疲れた顔。
けれどその頬には、昼間、彼に見つめられたときの熱が、まだかすかに残っていた。
机の上に置いたスマートフォンが光る。
社内チャットの通知。
「今日も残業、お疲れさまでした」
短いそのメッセージの送り主は、野上くんだった。
たったそれだけなのに、胸の奥で何かが跳ねた。
返信を打つ指が、いつになく震える。
「あなたも無理しないでね」
送信したあと、すぐに後悔する。
まるで、彼を気にしているみたいだ。
けれど、本当のところ、それは否定できなかった。
紅茶を淹れ、灯りを落とす。
部屋の隅で静かに湯気が揺れている。
カップを持つ手が温かいのに、胸の奥は冷たい。
孤独は、肌に触れずとも、確かに体を蝕む。
そこに浮かぶのは、昼間の彼の横顔。
コピー機の光が彼の頬を照らしていたこと。
あの距離の近さ。
そして、触れてはいけないのに、触れたいと思った瞬間の重さ。
窓の外で風が唸る。
雨が降り出した。
私はそっとブラインドを上げた。
ガラスに映る自分の指先が、かすかに震えていた。
理性が、境界線を描こうとするたびに、
心が、その線をぼやかしていく。
――人は、誰かを求めるとき、いったいどこまでが罪なのだろう。
夜更け、ベッドの中で目を閉じると、
彼の笑い声が微かに耳の奥に残っていた。
夢の中で、名を呼ぶ声がした気がした。
私は息を殺して、それが幻であることを祈った。
けれど、胸の鼓動は、現実よりも正直だった。
【第3部】静けさの中で溶けていく──許されぬ想いの終着点
翌週の金曜日、定時を過ぎたオフィスには、わずかな雨音と蛍光灯の唸りだけが残っていた。
社員のほとんどが帰り、広い空間にいるのは私と野上くんだけだった。
「この資料、明日の朝までに仕上げないとですね」
そう言って彼は笑った。
机の上に散らばる紙、湯気を立てるコーヒー、そして互いの呼吸。
時間がゆっくりと溶けていく。
言葉が途切れるたびに、沈黙が胸を締めつけた。
指先が触れそうになる距離。
私は自分の心を押し殺すように、資料に目を落とした。
けれど、紙の文字はもう読めなかった。
「村上さん」
彼が静かに名前を呼んだ。
振り向くと、真剣なまなざしがあった。
その視線が、まるで私の奥を覗き込んでくる。
理性が何かを警告する。
それでも、心が先に頷いていた。
「ダメよ」と言葉を探す唇が震えた。
けれど、声にはならなかった。
その瞬間、時計の秒針の音がやけに遠くに聞こえた。
世界が静まり返り、ふたりだけが取り残されたようだった。
雨が強くなる。
窓の外では街灯が滲み、ぼんやりと光の粒が流れていく。
彼の肩越しにその景色を見ながら、私は思った。
この感情に名前をつけることが、いちばんの罪なのかもしれない。
ふと気づくと、手の中の資料が震えていた。
それが自分の指先の震えだと理解したとき、
私は静かに深呼吸をした。
――これ以上、進んではいけない。
けれど、もう戻れない。
「お先に失礼します」と告げて立ち上がる。
ドアの向こう、廊下に出た瞬間、胸の奥が痛んだ。
それでも、背中を向けるしかなかった。
帰り道、夜風が冷たく頬を撫でた。
駅のホームで傘を閉じると、雨の匂いのなかに彼の香りが混じっている気がした。
その錯覚を抱えたまま、私は列車に乗り込んだ。
窓の外の街灯が流れていく。
光と闇のあいだで、私はただ息をしていた。
罪と呼ぶにはあまりに静かな、
それでも確かに燃えていた想いを抱えながら。
まとめ──触れられなかった温もりの記憶
人は誰でも、心の奥に小さな渇きを抱えている。
その渇きが誰かを求めたとき、道徳も理性も輪郭を失う。
村上美沙子にとって野上航は、孤独の暗闇に差し込んだ一筋の灯だった。
けれど、その灯に手を伸ばせば、たちまち指先が焼けることを知っていた。
彼女はその痛みを、忘れずに生きていくのだろう。
雨上がりの街の光を胸に刻みながら。





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