第一章:あの人の奥さま ― 触れてはいけないものの香り
僕が初めて佐伯部長の奥さま――つかささんに出会ったのは、まだ季節が春に片足を残していた、ある湿った金曜の夜のことだった。
場所は世田谷、閑静な住宅街の一角にある、白い塀に囲まれた二階建ての家。重厚な木の扉の向こうから、ふわりとローズマリーとバターの香りがこぼれてきた。
緊張した僕を出迎えてくれたのは、淡いベージュのワンピースに身を包んだ、つかささん。
「こんばんは、ようこそいらしてくれて」
その声は、柔らかく微熱を帯びていた。
その瞬間、僕は息を呑んだ。
彼女は、40歳を過ぎていると聞いていたが、年齢の数字など無意味に感じるほどだった。
スレンダーな体に沿うワンピースの生地が、わずかに透けて肌の色を滲ませていた。首筋に光る艶やかな鎖骨。湿気を含んだ髪が頬にかかり、ひと筋の色気がそこに宿っていた。
目が合った。その瞬間、身体が不思議な熱を帯びる。
まるで彼女の瞳が、僕の奥底の「見せてはいけない欲望」を見透かすかのようで。
「あなたのこと、夫からよく聞いてます。真面目で、一途で、少し不器用なところがあるって」
「え…」
僕はうまく返せずに頷いた。だけど、心の内では何かがふつふつと湧き上がっていた。
彼女の視線、言葉の間、指先の動き――全てが、あまりにも”女”だった。
ディナーは三人での食卓。白ワインとハーブローストの鶏肉。穏やかな会話の端々に、つかささんのしなやかな笑い声が絡みついて、僕は食事の味がわからなくなっていた。
食後、リビングのソファで部長がうたた寝を始めた頃、彼女がそっと僕の隣に腰を下ろした。
距離は、手を伸ばせば触れられるほど近い。
「仕事、…つらい時もあるでしょ?」
そう言って、彼女が僕の手の甲にそっと触れた。
温かくて、繊細で、そして――あまりにも意味を含んだ手のひらの温度。
僕の喉はからからに乾き、心臓が暴れるように鳴っていた。
その夜、帰り際に玄関先で彼女がスマートフォンを差し出した。
「もし何かあったら、いつでも連絡してね」
それは、上司の奥さまが部下に言うには、あまりにも私的すぎる距離だった。
登録された名前は「つかささん」。
けれど、それ以上深く考えまいと僕は思った。
彼女の吐息の近さ、香水と肌の匂いが脳の奥にこびりついたまま、その夜は眠れなかった。
**
…そして、一週間後。
夜の22時すぎ、スマートフォンの画面が光った。
【「急に、誰かと話したくなってしまったの。来てもらえない?」】
画面を見た瞬間、僕の指は意思を持たぬまま、文字を打っていた。
【「今から伺います」】
車のエンジンをかけながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
これがただの食事では終わらないことを――
もう、僕の身体は知っていた。
第二章:バスタオルの誘惑 ― 夜に濡れる本音
その夜の世田谷は、しんと静まり返っていた。
雨が降ったあとのアスファルトが月光を微かに照り返し、僕の靴音だけが夜の街に吸い込まれていった。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
――そして、僕は言葉を失った。
つかささんは、バスタオル一枚の姿で、そこに立っていた。
白いタオルが身体にしなやかに巻かれているだけで、肩のライン、鎖骨、太腿の内側までがあらわになっていた。
濡れた髪が肩から胸元へと張りついていて、その一滴一滴が、まるで誘うように肌を伝って落ちてゆく。
「…来てくれて、ありがとう」
声が震えていた。
その震えが、計算されたものではなく、抑えきれない感情の奥から溢れたものだと、すぐに分かった。
「急に呼び出してごめんなさい。…お風呂、入ってたの。あの人、今夜も帰ってこないって思ったら、なんだか空っぽになってしまって」
彼女の瞳は、潤んでいた。
それは、誰にも触れられずにいた女の、深く乾いた渇きのようだった。
僕は黙って頷いた。言葉が出なかった。
目の前にあるすべて――裸よりも淫らなその姿、指の震え、湿った髪の香り、すべてが、理性を脆く崩していく。
リビングの灯りは落とされ、間接照明だけが空間を柔らかく照らしていた。
彼女がソファに腰かけると、タオルの裾がふわりとめくれ、太腿の根元が見えた。
「ねえ…ずっと黙ってたけど、私、知ってるのよ。あの人が、何年も浮気してること」
低く、呟くような声だった。
「最初は信じてた。でももう無理。…触れられなくなって、もう一年になるの」
ゆっくりと僕に近づき、彼女は囁いた。
「私ばかり我慢するのって、おかしいよね…?」
指先が、僕の胸に触れた。
その瞬間、呼吸が浅くなる。彼女の手のひらが胸の上を滑るたび、僕の皮膚は熱を持ち、心臓が喉の奥までせり上がってくる。
彼女の身体が、膝の上に乗った。
「ねえ、私…しちゃダメかな?」
その言葉と同時に、バスタオルが滑り落ちた。
月明かりと間接照明のグラデーションの中で、彼女の裸が静かに浮かび上がる。
胸の先が淡く震え、息を吸うたびに柔らかな腹部が上下する。
腰の曲線、内腿の滑らかさ、全てが、まるで一枚の官能画だった。
彼女がそっと僕の唇にキスを落とすと、濡れた髪の先が僕の首筋に触れ、冷たさと熱さが同時に押し寄せた。
僕は彼女の身体を抱き寄せ、背中に手を這わせる。
肌は思った以上に柔らかく、呼吸が合うたびに胸と胸が触れ合い、唇が、首筋が、溶け合っていく。
彼女の指が、僕のシャツのボタンを一つずつ外していく。
その指先は震えていて、まるで「待っていた時間の長さ」を語るようだった。
「あなたの手…もっと、私のこと、思い出させて」
彼女の腰が僕の上に沈み込んでくるたび、吐息と吐息が絡まり、思考は徐々に断ち切られていく。
あえぎ、求め、絡み合う音が、雨の夜の静けさの中でいやに生々しく響いていた。
身体がつながるたび、胸の奥が震え、彼女の名前を呼ぶたびに、過去と罪が溶けていくようだった。
クライマックスに近づくにつれ、彼女の手は僕の背中を強く掴み、指の爪が肌に残る。
「お願い…あなたの中で、壊れてもいいの…」
その瞬間、僕はもう抗えなかった。
心の奥に封じていた欲望が溢れ出し、彼女の身体の奥へ、深く、深く沈んでいく――
すべてがほどけて、ひとつになる音が、世界の中心で鳴っていた。
第三章:甘く、苦く、ほどけない関係 ― ふたたび交わる夜に
朝が、静かにやってきた。
カーテンの隙間から差し込む光が、肌の上にやさしく落ちている。
僕は目を開け、隣を見る。つかささんは、僕のシャツを一枚だけ羽織って、キッチンに立っていた。
背中越しに、湯気の立つマグカップが二つ。
細くしなやかな脚が床に触れ、シャツの裾から覗く素肌が、なぜか現実味を欠いて見えた。
「おはよう」
そう声をかけると、彼女は振り返り、ふっと笑った。
その笑顔は、夜の湿度とは違う、どこか穏やかで…でも、かすかに物憂げだった。
「コーヒー、濃いのと薄いの、どっちが好き?」
何気ないその問いが、昨夜の熱に比べて、あまりに優しくて、胸が少しだけ痛んだ。
テーブルにつき、二人でコーヒーを啜る。
裸のまま交わったはずなのに、今こうして目を見て話すことのほうが、ずっと心の奥をかき乱した。
「私ね、夢見てたのかもしれない」
つかささんが言った。
「ずっと、誰かに触れられたかった。ちゃんと、見てほしかった。……”女”として」
僕は、返す言葉が見つからなかった。
彼女の視線が、コーヒーの湯気に揺れてにじんでいくのを、ただ見つめるしかなかった。
**
それから僕たちは、“週末の恋人”になった。
部長が出張やゴルフで家を空けるたび、つかささんからメッセージが届いた。
【今夜、来られる?】【会いたい。もう我慢できない】
平日の僕は、会社で彼と笑いながらランチを取っていた。
その向こうに、あの肌、あの吐息、あの夜の声を抱える奥さまがいる――
その矛盾と背徳が、逆に僕を興奮させていった。
ある夜、ソファで彼女と重なったあと、シャワーの中でつかささんが背中に抱きついてきた。
「ねえ…好きって言って」
その声は、とても静かだった。
恋ではなく、救いを求める声に似ていた。
「好きです。…あなたのすべてが」
僕の答えに、彼女は何も言わず、ただ腕に力をこめてきた。
しずくが流れる身体の上を、指がなぞる。
浴室の壁に手をつかせ、後ろからそっと腰に触れると、彼女は息を詰めて、瞼を閉じた。
湯の音の中に混ざる、湿った吐息。重なり合う音と熱が、密室に充満していく。
その夜、僕たちは何度も、何度も貪り合った。
肌と肌だけでなく、心の芯までも絡めとるように。
**
でも、時が過ぎるごとに、彼女の瞳に少しずつ陰りが差し始めた。
快楽の果てに残るのは、満たされる感覚ではなく、空白だった。
ある土曜の朝。
つかささんが、ベッドの端に座って、小さくつぶやいた。
「ねえ…あなたは、私といるとき、罪悪感ある?」
僕は返せなかった。
たとえ嘘でも「ない」と言えればよかったのかもしれない。
でも、そのときの彼女は、もう答えを知っているようだった。
**
それでも、僕はまた彼女を求めた。
あの温度、あの瞳、あの指先を――どうしても忘れられなかった。
週末が来るたびに、心が軋む。
もうやめよう、と思う夜もあった。
でも、彼女から「会いたい」と届いた瞬間、僕はただ、靴を履いていた。
身体は、覚えてしまっていた。
彼女の中に沈む感覚。
あの深く、甘く、背徳のぬくもり。
それは恋よりも鋭く、優しさよりも淫らで、
誰にも見せたことのない自分を、すべて委ねてしまえるほどの――愛だったのかもしれない。
**
つかささんの肌の匂いは、今でもときどき風の中に紛れて僕を惑わせる。
あれは、夢だったのか。幻だったのか。
答えは、もう出ない。
でも確かにあの夜、
僕たちは、触れてはいけない愛に触れ、
ほどけることのない、ひとつの記憶になった。
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