免許合宿に参加してしまった世間知らずな人妻 他県の若者達のビンビンなズル剥け巨根でねとられて… 波多野結衣
【第1部】山の静けさがほどく紐──役割という名の鎧を脱ぐまで
合宿所へ向かう送迎バスの窓ガラスに、針葉樹の濃い影が糸のように流れていく。夫と話し合って決めたこと、必要に迫られての免許取得──それだけのはずだった。けれど山の空気は、街の重さとはまるで違う触り心地をしていて、私の皮膚は自分でも驚くほど敏感に、見知らぬ静けさを吸いこんでいった。
「ここ、星がきれいなんですって」
受付の女性の言葉が、小さな鐘の音みたいに耳の奥で鳴った。星。最近、見上げていただろうか。洗濯物、パートのシフト、夕食の段取り、夫の好みと私の疲労の折り合い──空は、いつも屋根の向こう側の話だった。
食堂では若い子たちの笑い声が揺れていた。まだ日が沈みきらない時間、氷の入ったピッチャーから水が注がれる音、キャップを開ける乾いた破裂音、椅子の脚が床を擦る摩擦。私は自分の年齢を、背中に背負ったリュックの重さみたいに意識する。
「一緒の班ですか?」
声をかけてきたのは二十代前半だろう青年で、まっすぐなまなざしがいつもの私の回路を少しずらす。
「そう…みたいね」
笑ってみせると、肩のどこかがほぐれていく。若さの匂いは、甘くて、少し苦い。あの頃、私は自分の呼吸の音にもっと敏感だった気がする。今は、家の音ばかりを聞いている。
最初の技能教習。ハンドルが私の手の幅に合っていない気がして、右折のときに肩が固くなる。インストラクターは落ち着いた声で「視線は遠く」と言い、私はフロントガラスの向こうの山肌を見つめる。遠くを見る──これまでの私が最も避けてきたこと。近くにある「やるべきこと」だけを正確にこなしていれば、生活は崩れないと信じていたから。
夜、相部屋の窓に網戸ごしの風が入ってくる。年の近い女性はおらず、私は一人で小さい灯りをつけ、配られたテキストをめくっては、ページの白に目が疲れるのを感じた。隣室から漏れる笑い声は遠く、決定的に私のものではない。なのに、耳がそちらへ伸びてしまう。「妻」である自分の輪郭が、薄紙みたいにめくれ、下からまだ名前のない皮膚が覗く。
夫に「順調?」と短いメッセージを送る。既読がつき、丁寧な応援が返ってくる。私はその優しさに安堵しながら、画面を閉じると同時に胸の奥の空洞がふくらむのも感じた。優しさは、必要で、ありがたくて、しかし私を満たし切らないときがある。
「…ねえ、私、うまくやれてる?」
小声でつぶやくと、窓の外の風がカーテンを揺らした。返事はない。けれど、夜気の触れ方にだけ、ふっと肯定される気がした。
翌日、坂道発進でエンストを繰り返し、ハンドブレーキの感触を何度も確かめる。うまくいかないたび、喉の奥が乾く。休憩の自販機の横で、昨日の青年がペットボトルを差し出した。
「一本どうぞ。冷たいの、余ってて」
「ありがとう」
飲み口に触れる金属の冷たさ。炭酸の細かい気泡が舌を刺す。
「大人って、すごいですよね」
唐突な言葉に笑ってしまう。
「どうして?」
「僕ら、まだ“自分”の輪郭が曖昧で。大人は、ちゃんと持ってる気がする」
私は、しばらく返事を見つけられなかった。輪郭。持っているフリなら、ずっと上手にしてきた。
「ねえ、あなたの輪郭は、どんな形?」
青年は少し考えてから、空を見た。
「季節で変わる、雲みたいな形です」
私は、そのたとえに、胸の奥の糸がほどける音を聞いた気がした。固定された輪郭に息苦しさを覚えていたのは、私のほうだったのだ。山の静けさは、私の鎧の留め金を、目に見えない指で少しずつ緩めていく。
【第2部】境界に触れる指先のような夜──笑い声、氷の音、そして名づけられない予感
週の半ば、班の数人で小さな集まりをすることになった。各自が駄菓子や紙コップを持ち寄り、合宿所の隅の談話室に輪を作る。テーブルの上で溶けかけた氷が、コップの内側を転がって鳴いた。
「卒検、緊張しません?」
「やばいって、縦列」
笑い声は軽く、空気はゆるやかにあたたかい。私は紙皿に手を伸ばしながら、自分が輪に入り込む角度を探っていた。若い子たちの冗談の速さに乗り遅れないよう、笑いのタイミングを身体で覚える。するとふと、輪の中心の熱が、私の内側にも分け前をくれる。
私の手元のコップに、青年が静かに氷を足した。白い息が、二人のあいだで触れ合う。
「明日、路上ですよね」
「ええ。山道、ちょっと怖い」
「遠くを見ると、怖くないらしいですよ」
私はその言葉を、二度、胸の中で転がした。遠くを見る──いつも近くばかり見て、つまずかないように歩いてきた。遠くにピントを合わせると、近くの輪郭が柔らかくぼける。ぼけた世界は、思いのほか優しい。
輪の会話は、将来の話に移り、就職のこと、抱いた夢と捨てた夢、親の期待、恋人との距離。私は黙って聞きながら、それぞれの言葉が描く温度を撫でていた。彼らの時間の速さと、私の時間の遅さが、同じテーブルに置かれている。不思議と悲しいのではなく、ただ眺めていたい風景だった。
「ねえ」
青年が小声で言う。
「大人になって、いちばん驚いたことって何ですか」
私は少し考えてから答えた。
「“自分は大人だ”と感じる瞬間が、思ったほど来ないこと」
彼は目を瞬き、笑った。
「安心しました」
「なにが?」
「ずっと雲でいても、いいのかなって」
そのとき、窓の外できしむような風の音がした。ガラス越しに見える山の黒い線は、夜の湿り気でやわらかく滲んでいた。誰かがふざけて古いラジカセに触れ、テープが伸びたような音楽が流れはじめる。私は呼吸を深くする。胸の内側で、長い間しまっていた箱の鍵が、乾いた音を立てて回る。
「ねえ、あなたは、どうしてここに来たの?」
気づけば私のほうから尋ねていた。
「免許が要るから、ですけど」
少年らしい答えに笑うと、彼は続ける。
「でもほんとは、もっと遠くまで行ける気がして。免許って、地図の外まで続いてる“線”に触るみたいで」
地図の外。胸の下のほうで、小さな炎が音を立てずに燃えた。
輪が少しずつほどけ、三々五々に部屋へ戻っていく。私は片付けを手伝い、紙皿の油じみを重ね、袋の口を縛る。その一連の動きのどこかで、ふいに目の前の景色がゆらぐ。酔いではなく、もっと静かな眩暈。
「大丈夫ですか」
青年の手が、私の肘に触れた。指先は驚くほどあたたかい。
「…ちょっと、熱いだけ」
自分の声が遠くから聞こえる。
「水、持っていきます?」
「うん、お願い」
廊下は薄暗く、非常灯が緑に光る。階段の手前の踊り場で、私は一度立ち止まる。壁に背を預けると、古い塗装の匂いがした。
「ありがとう」
ペットボトルを受けとると、プラスチックの凹みが掌に吸いつく。喉を潤す冷たさに、身体の温度がゆっくりと調律されていく。
「…怖いの、きっと運転じゃない」
口をついて出た言葉に、自分で驚く。
「じゃあ、何が」
「遠くを見ること。見えたものを、もう“知らなかったこと”にできなくなるのが」
沈黙。階段の上から、夜虫の羽音だけが降りてくる。
「それでも」
青年は静かに言う。
「見たいって、思いましたよね」
私は頷く。うなじに、見えない風が触れたようにひやりとする。距離は保たれたまま、境界に触れる指先だけが、空気の中で確かな温度を帯びていた。
部屋へ戻る前、私は振り返って小さく言う。
「ねえ。いつか、雲の形を教えてね」
「ええ。あなたの雲も、いつか」
その約束は、どこにも書かれない。けれど私の胸の内側に、薄い栞のように差しこまれて、ページの隙間から香りを放ち続けた。
【第3部】朝の路上で見えた地図外の線──揺さぶりののちに残る静けさ
翌朝、路上教習。山の稜線が、鉛筆で一度引いてから指でぼかしたように柔らかい。私はミラーを合わせ、シートに背を預け、深く息を吸う。インストラクターの声が一定のリズムで流れ、私はそれに合わせてアクセルを踏み、ブレーキに触れ、ハンドルを切る。遠くを、見る。
カーブの先に、細い橋が見える。ガードレールに朝露が並び、小さな光の玉が一列に揺れる。それは昨夜の談話室の笑い声の残響に似て、美しく、少し胸を刺した。私の握るハンドルの革は、体温に馴染みつつあり、掌は昨日より少しだけ確かな感触で「前へ」を受け止めている。
合図を出し、車線変更。バックミラーに映る自分の目が、見慣れない色をしていた。張りつめてもいない、湿ってもいない、ただ透明なまま芯が立っている。
「いいですよ、安定してます」
インストラクターの声が、遠雷のように控えめに背中を押す。私はふと、昨夜の踊り場の沈黙を思い出す。近づき過ぎない距離のなかで、境界に触れる指先の温度。あれは危うさではなく、名づけの瞬間だった。私は自分の中の、長いあいだ匿名だった衝動に、初めてひらがな一文字ぶんの“名前”を与えたのだ。
発着点に戻ると、風が立っていた。汗ばむ手でハンドルを離すと、指先が少しだけ恋しがるように空を握る。インストラクターが評価を読み上げ、私は相槌を打つ。言葉は淡々としているのに、胸の奥では、小さな鐘が連打されている。
午前の座学を終えると、構内のベンチに座って目を閉じた。まぶたの裏を、走行した道路の線が白く横切る。地図の上の線というより、私の内側を走る線。行き先のわからない分岐がいくつもあり、どれを選んでも私の路上であるような感覚。
「終わった?」
声に目を開けると青年が立っている。空は薄い青。
「うん。遠くが、少しだけ近くなった」
「それ、最高です」
彼はベンチの端に腰をおろし、靴紐を結びなおした。無防備に下を向くうなじの線。私は視線を逸らし、空へ逃がす。
「ねえ」
私の声は自分のものではないみたいに静かだった。
「あなたが言っていた“地図の外”って、見えた?」
「少しだけ。まだ、輪郭は雲」
「私も」
二人で笑う。言葉にしないものが、笑いの奥で頷き合う。たぶん同じものを見たのだ。あの夜の沈黙の中で、私たちは互いの境界を越えなかった。その代わり、境界の“向こう側が在る”という事実だけを、丁寧に確かめた。触れないことは、時に、最も深く触れることになる。
夕刻、合宿所の門から空を見上げると、雲がちぎれて光の通り道ができていた。私はスマートフォンを取り出し、夫に短いメッセージを送る。
「明日、みきわめ。がんばるね」
送信の音が鳴る。そのあとに続けようとして、指が止まる。胸の奥で、別の言葉が泡のように生まれては消え、言語化されないまま体温に戻る。私は深く息を吸い、それらを自分の内側の棚にそっと置いた。
夜、窓を開けると、風がカーテンを撫でた。談話室からは低い笑い声、遠くで缶を開ける音。私は枕元の灯りを落とし、暗さの密度に身を浸す。耳の奥で、自分の鼓動が規則正しく鳴る。
──私の中の“誰か”が起きている。
それは危険な誰かではなく、忘れていただけの私だ。役割の名札を外した私。周囲に合わせて微笑むだけじゃない、選ぶことに責任と歓びを同時に感じる私。愛することと、呼吸することを、同じ強さで大切にしたい私。
「…大丈夫」
暗闇に向けて呟く。
「私は、遠くを見る」
言葉は静かに沈み、床下を流れる地下水みたいに、どこかで広い水脈と合流する。胸の真ん中に、手のひらほどの透明な空白が生まれ、その空白が私の呼吸と同じ速度でわずかに膨らんだり縮んだりする。触れない手の温度が、そこに宿っている。私はその空白を、これからの私の名前にするつもりで、目を閉じた。
まとめ──“遠くを見る”という密やかな革命
合宿の日々は、免許という実用のために始まり、私の内側の地図を書き換えるために続いた。若い笑い声は羨望ではなく、封印していた自分の呼吸を思い出させるための拍動になり、夜の談話室の氷の音は、胸の鍵が回る微かな合図になった。私たちは境界を越えなかった。けれど境界に指先で触れ、向こう側が在るという事実を分かち合った。その触れない触れ方は、私の中の無名の衝動に、初めての名前をくれた。
“遠くを見る”と教習で言われた言葉は、運転だけの話ではなかった。近くの「やるべきこと」だけを正確にこなして生きるうちに、私は自分の輪郭を固くしすぎていた。雲のようでいていい。季節と風で形を変える輪郭を、恥じる必要はない。
このささやかな革命は、誰にも見えず、誰も称えない。けれど私の呼吸の深さを、確かに変えた。愛する人に向ける穏やかな視線も、これまでより遠くまで届くはずだ。地図の外へ続く線が、ハンドルの下だけでなく、胸の奥の透明な空白からも伸びているのを知ってしまったから。
これからの私は、生活を整え、必要を満たしながら、それでも時折、顔を上げる。遠くを見る。そのたびに、あの夜の沈黙が私に頷き、「大丈夫」と言うだろう。触れない手の温度を胸に、私は前へ進む。
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