同窓会NTR 音信不通になった一夜、最愛の婚約者はボクに内緒で元カレと… 白岩冬萌
【第1部】鈍い予感──届かないコールとコロンの残り香
帰宅して最初に気づいたのは、カップボードの隅に置かれた小さな瓶だった。冬萌のコロン。金色のキャップに指を触れると、昼の体温がまだ宿っているみたいで、わずかに甘い柑橘と白い花の気配が立ちのぼる。
「同窓会、行ってくるね」
玄関でそう言った彼女の笑顔は、長年の付き合いのなかでもいちばん晴れて見えた。婚約の報せを双方の親に伝えたばかりの週末。お互い、もう子どもではないという安堵が、会話の隙間を丸くしていた。行ってらっしゃい。そう言って、僕は玄関扉の閉じる音を、縁起のいい合図みたいに受け取った。
夕方が夜に変わる境目、窓の外で、路線バスがブレーキを踏む音がした。カーテンの裾が、冷えた空気と一緒にゆっくり揺れる。スマホには、何も来ていない。
既読がつかないことに意味を与えるのが、いちばん愚かな遊びだと知っている。けれど、人はときどき愚かでないとやっていけない生きものだ。僕は冷蔵庫の氷をグラスに落として、音の余韻が消えるまで耳をすませた。氷に注いだ炭酸の泡が、細かくはぜては消える。まるで、考えが弾ける音が可視化されたみたいで、少し笑ってしまう。
テレビは消した。部屋は静かになりすぎ、僕の呼吸が生活音になった。彼女のマグカップを洗い、テーブルを拭き、床に落ちた髪の毛を指先で拾って、ゴミ箱へ落とす。それらは全部、時間に手触りを与えるための儀式だ。
八時。一次会の終わる頃だろう。僕は一度だけ電話をした。呼び出し音は、教科書に載っていない外国語みたいに遠い。つながらない。
大丈夫。僕は信じることにかけては、それなりに鍛えられてきた。疑うことの手際のよさは、心の体温を奪う。信じるほうが、少なくとも温かい。
冬萌は綺麗すぎる。公平であろうとする人ほど、美しさに過敏だ。彼女自身がそうだ。人の善意にも悪意にも、同じ距離で触れようとする。その無垢な平衡感覚が、ときどき、僕を不安にさせる。
例えば、そこに元カレがいたとして。
例えば、古いあだ名で呼ばれて、懐かしい旋律が胸骨を叩いたとして。
例えば、酔いの毛布が一枚、肩に掛かったとして。
たったそれだけで、人は簡単に昔の温度へ帰ってしまうのだろうか。
九時を過ぎると、窓の外でタクシーが急いだ音が続けざまに鳴った。二次会へ向かう人々の影が歩道を流れる。街は、誰かの選択の総和で明るい。
僕はもう一度だけコロンの瓶のキャップを開けて、ふわり、と吸い込んだ。鼻腔の奥が少し痛むくらい鮮烈で、それは冬萌の笑い声の立体映像だった。あの声を、これからも生涯、起きている時間の半分は僕の傍で鳴らしたい。そう思うと、胸が静かに熱を持った。
十時。通知は沈黙のまま。
ソファに背を沈め、指先でスマホの角を撫でる。触れているだけで、救命胴衣に手をかけているみたいに落ち着く。画面の黒は深い湖面のようで、文字通り僕自身を映し返す。そこに、眠れていない男の目が二つ、暗がりのなかで固まっている。
信じたい。
疑いが信頼の対岸にあるのではなく、同じ橋の片側に並んで立っているのだと、何度も言い聞かせる。風が吹けば、どちらにも揺れる。揺れながら、真ん中に戻ろうとする。それが、僕たちの均衡だ。
十一時。初めて、音のない吐息が漏れた。
電話をしない代わりに、短いメッセージを書いては消し、また書いては消す。
「楽しんでる?」
「終わったら気をつけて帰ってきて」
「無理しないでね」
どれも、送ってしまえば安堵か後悔のどちらかへ傾く文だ。送らないことは、揺れの中心に立つこと。けれど、中心はときに、足元が見えないほど暗い。
午前零時の少し前、廊下の照明が自動的に落ちた。家電の小さな点滅が、夜の星座のように家の内部を縫う。僕は窓を少しだけ開け、冷たい空気を胸に流し込む。遠くで笑い声。近くで信号の切り替わる音。誰かの人生が加速したり減速したりする、無数の瞬間の交差点に、自分もまた立っているのだと気づく。
ふと、思い出す。
プロポーズの夜、彼女はテーブルの端に置いた指輪を見て、少し黙った。涙を堪えるとき特有の、喉の奥が細くなる音がして、「ねえ」と言った。「私を信じるって決めてくれたあなたを、私も信じたいの」
“決めてくれた”という言い回しが、妙に胸に残った。信じることは情熱ではなく、意思の問題だ。選ぶのだ。たとえ不安が理屈を持って押し寄せる夜でも、選ぶほうへ身体を傾ける。
零時。三度目のコール。やはり、つながらない。
想像は、動物の影のように壁を走る。ホテルのロビーに溢れる絨毯の匂い、廊下の静けさ、鍵が回る音、閉まるドアの重み。誰も僕を責めていないのに、僕は自分を責める。ありえない展開、くだらない妄想――そう言い捨てることでしか、想像の脚を止められない。
それでも、止めたはずの脚は、どこかでまだ動いている。想像は息を潜め、次の息継ぎを待つ泳ぎ手みたいに闇の底で身を丸める。
キッチンに立ち、蛇口をわずかにひねる。水がステンレスを叩く音は、懺悔にも似て澄んでいる。コップに水を満たし、喉を通す。冷たさが身体を一本の管に変え、余計な音が消える。静寂が戻る。
窓辺に立ち、外を見下ろす。タクシーは減り、コンビニの白い光だけが変わらず明るい。人は夜でも、明かりのある方へ歩いていく。その仕組みを責めることはできない。僕だって、彼女の笑顔という明かりに向かって歩いてきた。もし彼女が、昔の明かりに少しだけ足を向けたとしても――その灯りが消えるまで見届けて、帰ってくる道を照らせる人間でありたい。
零時半。指輪を外して、掌にのせる。冷たさは、約束の輪郭をはっきりさせる。光は静かで、音がしないのに鳴っているように見える。
「冬萌」
声に出してみる。名を呼ぶだけで、部屋の空気が柔らぐ。名前は、離れている二点を結ぶ最短距離の糸だ。たとえ相手が遠くのざわめきの中に紛れていても、その糸の先は確かにここへ繋がっている。
午前一時。ようやくメッセージが一つ、届いた。
《ごめん。二次会長引いた。いまタクシー。帰ったら話すね》
たったそれだけ。
画面の白が、深夜の湖面に差す月光みたいに広がる。僕は息を吐く。長い夜歩きのあとのベンチに腰を下ろした気分。信じるという選択の上に、言葉がひとつ、そっと置かれた手のひらの重さ。
鍵が回る音を、僕はまだ聞いていない。けれど、耳がその音の形を覚えている。ドアの向こうに立つ人の影。その靴音。コートが壁に触れる気配。
夜は、終わるまでは終わらない。けれど、終わりを待つあいだにも、小さな朝は何度か訪れる。メッセージの点滅は、その一つだ。
僕はコロンの瓶のキャップを閉める。甘い香りはまだ空中に漂い、見えない糸で部屋の四隅をゆるく結ぶ。どこにも切れ目はない。指輪を薬指に戻し、ゆっくりと座り直す。
信じることは、夜の舌で言えば、静かに溶ける飴のようなものだ。すぐには消えない。甘さは控えめで、時々ほろ苦い。けれど、その味がある限り、喉はからからにならない。
遠くで、タクシーのドアが閉まる音がした。時計の針が、同じ場所を何度も通り過ぎる。僕は呼吸をひとつ深くして、玄関の向こう側にある足音のイメージを、そっと胸の中心に灯す。
夜の長い廊下を、確かめるように歩いていく。次の扉が開くまで、言葉を磨ぐ。届かないコールの残響と、甘いコロンの余韻のあいだで。
【第2部】記憶の影──帰宅した彼女と夜の温度差
鍵の回る音がした。
その一瞬、心臓が物理的に跳ねるのがわかった。どれほど長くこの音を待っていたのか。時計は午前一時を過ぎていた。ドアの隙間から冷気が流れ込み、続いて、淡い香水と微かなアルコールの匂いが部屋の空気に混ざった。
「ただいま」
声は穏やかだった。酔っているのか、あるいは眠気が混じっているのか、判断がつかない。
冬萌はコートを脱いで、壁際のハンガーに掛ける。白いセーターの肩にわずかな皺が寄っていて、そこに残る影が夜の名残のように見えた。
「遅かったね」
「うん、ごめん。二次会が思ったより長引いちゃって」
彼女は笑いながら靴を脱いだ。
その笑顔は、確かに見慣れたものだった。けれども、どこか奥にわずかな曇りがある。彼女が座る前に、僕はテーブルの上のコップを片づけ、何か言葉を探した。
「楽しかった?」
「うん。懐かしかったよ。みんな、変わってなくて」
彼女はそう言いながら、指で髪をすくい上げた。耳の後ろのあたりが少し赤い。冷たい空気のせいか、あるいは別の理由か。僕はその指の動きを目で追いながら、何も問えなかった。
部屋の灯りが暖かすぎて、互いの沈黙が膨張する。冬萌はバッグからスマホを取り出して充電器に差し込み、すぐにソファに腰を下ろした。
座った瞬間、わずかにスカートの裾が揺れて、光が脚の白さをなぞった。その白さの中に、微かに夜の色が混じっているような錯覚。
僕はキッチンから温かい水を持ってきた。
「喉、乾いたでしょ」
「ありがとう」
彼女はグラスを両手で包み、唇を近づけた。その仕草が妙にゆっくりで、見てはいけない映像を再生しているような気がした。
沈黙が伸びる。
時計の針が、冷たく時間を刻む音だけが部屋に残った。
やがて冬萌が言った。
「ちょっと、お風呂入ってくるね」
その言葉のあと、彼女は立ち上がり、洗面所へ向かった。
ドアが閉まる。
すぐにシャワーの音が響きはじめる。一定のリズムで、透明な音がタイルに跳ねる。
僕はソファに沈み込み、目を閉じた。想像を止めるには、想像の先を歩くしかない。
髪に残る香り。肌の上の温度。誰かの指の形。そんなものを考えたくないのに、音がすべてを呼び起こす。水が流れる音が、まるで記憶を洗っているようで、どんどん想像の輪郭が濃くなっていく。
十五分ほどしてシャワーの音が止んだ。
ドアの開く音。髪を拭く布の擦れる音。
タオルを巻いた彼女がリビングに戻ってくる。髪から滴る水が肩を伝い、鎖骨のあたりで消えた。その線を目で追いながら、僕はただ呼吸を整えた。
「ねえ」
彼女が僕を見た。
「心配した?」
その問い方が、少しだけ甘かった。
「……うん」
「ごめんね」
そう言って笑った彼女の唇が、少しだけ震えた。
僕はその微細な震えを見逃さなかった。まるで何かを言いかけて、のみ込んだような、そんな震えだった。
冬萌は髪を乾かしながら、窓際に立った。
外の闇を見つめている。
その背中を見ていると、僕は妙に懐かしい感覚に襲われた。
高校のとき、彼女が放課後の教室で窓の外を見ていたときと同じ姿勢だった。あのときも、何を考えているのか分からなかった。
言葉が喉に詰まる。
問いかければ、何かが壊れてしまう気がした。
でも、何も言わなければ、もっと大切なものが壊れるような気もした。
そのとき、彼女がふと振り返った。
「ねえ、今日ね、久しぶりに○○(元カレの名前)に会った」
彼女は静かに言った。
その声は、あまりにも落ち着いていて、逆に不安を煽った。
「そうなんだ」
ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えなかった。
「向こう、結婚してるって。子どももいるって」
「そっか」
「うん。だから、何か…すごく不思議だった。あの頃の自分たちが、まるで違う世界の話みたいで」
彼女は笑った。けれどその笑顔は、少しだけ泣きそうだった。
「昔の話、だよ」
その一言で、会話が終わった。
けれど、“昔”という言葉の中に、まだ温かい“今”が少し混じっている気がした。
彼女が寝室へ向かう。
僕は少し遅れて立ち上がり、明かりを落とす。
暗闇の中で、布団の擦れる音、衣擦れ、呼吸のリズム。
眠りの前の沈黙は、まるで二人の間に見えない薄膜を作る。
その薄膜の向こうで、彼女の背中がわずかに動いた。
呼吸とともに、柔らかい熱が空気に滲んでいく。
僕は手を伸ばそうとしたが、寸前で止めた。
触れたら、全部が確定してしまう気がした。
触れないまま、夜を越えること。
それが、今できる精一杯の“信じる”だった。
窓の外がわずかに白む。
彼女の寝息が静かに重なっていく。
その音が、遠い場所で誰かが笑っているように聞こえた。
【第3部】朝の残響──沈黙の告白と信じるという選択
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
冬萌の髪がその光を受けて、淡い金色を帯びる。シーツの上に落ちるその影は、夜の名残と朝のはじまりの境界を曖昧にしていた。
彼女はまだ眠っている。
小さく呼吸するたび、喉の奥でかすかな音が鳴る。まるで、誰かの名を呼ぶ手前のように。
その寝顔を見つめながら、僕は胸の奥に重く沈む感覚を確かめていた。
夜のあいだ、何度も目を閉じては開けた。
そのたびに、あの沈黙が部屋の中に戻ってくる。
言葉を飲み込むというのは、心の中でひとつの物語を完結させることだ。
彼女が何を思い、どこにいたのか。
僕はそれを知らないままで、朝を迎えた。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
湯気がゆらゆらと昇っていく。
香りの立ち上がり方が、まるで“待つ”という行為そのものだった。
何かを確かめたいわけではない。ただ、この空気の中で、彼女が息をしていることを確かめたかった。
「起きてたんだ」
背後から声がした。冬萌が、髪を結びながら立っていた。
「うん。コーヒー、飲む?」
「うん」
彼女はマグカップを両手で包み、少しだけ微笑んだ。
その笑みの裏に、ほんのわずかな疲れがあった。
まるで夜の中で、何かを抱きしめたまま眠った人の顔。
「ねえ」
僕は言葉を選ぶようにして口を開いた。
「昨日、楽しかった?」
「うん。懐かしかったよ。…でもね、ちょっと怖かった」
「怖かった?」
「うん。昔の自分に戻れそうになって、怖かった」
冬萌は目を伏せた。
光がまぶたの薄い皮膚を透かして、わずかな血の色を浮かび上がらせた。
僕はその光景を見ながら、言葉を失った。
沈黙。
長い沈黙のなかで、コーヒーの香りだけが二人の間を漂っていた。
その香りの粒子が、言葉の代わりにすべてを語っている気がした。
冬萌がゆっくりと息を吸い、言った。
「私ね、ちゃんと帰ってきたよ」
その声は、涙の直前で止まる声だった。
「それだけは、信じてほしい」
僕はうなずいた。
信じる、という行為がこんなにも体温を伴うものだとは知らなかった。
その言葉を胸に入れた瞬間、目の奥が熱くなった。
「ありがとう」
それだけ言って、彼女はまた微笑んだ。
その笑顔には、夜の影が少しだけ残っていた。けれど、それはもう痛みではなく、過去を抱いたまま生きようとする人の表情だった。
僕は彼女の指に触れた。
冷たく、細く、それでも確かに温かい。
その感触が、長い夜をようやく終わらせた。
窓の外で、朝の風が木々を揺らしていた。
葉のこすれる音が、まるで二人の沈黙を祝福しているように聞こえる。
僕は深く息を吸い込んだ。
夜に閉じ込めていた言葉が、ようやく肺の奥から解けていく。
まとめ──“信じる”という形のない愛
夜の沈黙は、疑いと信頼の狭間に生まれる。
疑えば壊れ、信じれば痛む。
それでも、信じることを選ぶのは、愛が形を求めないからだ。
冬萌の背中を見つめながら、僕は思う。
人は他人のすべてを知ることはできない。
けれど、知らないまま愛することなら、できる。
それは、触れずに抱きしめることに似ている。
沈黙を受け入れることは、きっと、もっとも深い“会話”のひとつだ。
朝の光が彼女の髪を撫でる。
夜の残響はまだ微かに残っているけれど、その奥に、新しい一日が確かに始まっていた。
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