ネトラレーゼ 妻が同僚に寝取られた話 紗々原ゆり
日常の裏側に潜む人間の欲望と矛盾を、カメラが一切の装飾を排して切り取っていく。
登場人物の表情、視線の揺れ、沈黙の間合い──すべてが「見てはいけないもの」を覗き見るような緊張感を生む。
欲望を描きながらも、単なる刺激ではなく“心の奥のざらつき”を描く点が秀逸だ。
見る者はきっと、自分の中の倫理と衝動の境界線を探ることになる。
映像作品としての完成度も高く、心理ドラマとしても余韻が深い。
【第1部】知らなかった妻の横顔──スマホの奥に潜んでいたもう一つの夜
三重県の郊外、名張市。
三十二歳の僕──佐伯悠人は、ごく普通の営業職として働いていた。
妻の**紗季（さき）**とは結婚して六年。二歳年下で、学生の頃からの付き合いだ。
朝は白いシャツにアイロンをかけ、夜は僕より少し遅く帰る。
どこにでもある穏やかな夫婦の生活だった。少なくとも、あの日までは。
金曜日の夜。
小雨が降っていた。僕は残業を終えて帰宅し、妻の姿がないリビングに小さな違和感を覚えた。
テーブルの上には飲みかけのワインのグラスと、スマートフォン。
画面が薄く光っていた。通知音が静かに響いたとき、胸の奥がざわついた。
理由のない不安が、まるで喉の奥で脈打っているようだった。
触れてはいけない、と理性が囁いた。
けれど指先は勝手に動いていた。
画面をスワイプすると、動画のサムネイルが現れた。
そこに映っていたのは、白いブラウスの女──見覚えのある肩の線、髪の揺れ。
まるで、見慣れた日常が音を立てて剥がれ落ちていくようだった。
再生ボタンを押す瞬間、呼吸が止まった。
胸の奥で何かが軋んだ。
音声が流れるよりも先に、僕は悟っていた。
映っているのは、紗季だ。
そしてその横には、会社の同僚、野間先輩の姿。
その二人の間に漂う空気が、画面越しでも生々しかった。
理解が追いつかない。
けれど、身体は正直だった。
なぜか指先が震え、目が離せなかった。
痛みと欲望が混ざり合い、心臓が脈打つたび、現実感が遠のいていく。
愛しているのに、壊れていく。
その矛盾が、焼けるように熱かった。
「どうして……こんな……」
声にならない声が漏れた。
その瞬間、画面の向こうの妻が笑った気がした。
あの優しい目ではない。
知らない女の目だった。
【第2部】静かな崩壊──夜の底で疼き出すもの
翌朝、紗季はいつも通りの笑顔で僕にコーヒーを差し出した。
「昨日、遅かったね」
それだけの一言に、胸が軋んだ。
彼女の瞳の奥に、昨夜の画面が重なって見えた。
知らなければ平穏に過ごせたのに──知ってしまった世界は、もう戻らない。
彼女の指先がカップの縁をなぞる。その滑らかな動きが、まるで昨夜の残像をなぞっているように見えた。
僕は視線を逸らしたが、肌の奥がざわつく。
唇の端に浮かぶ微笑、それは無垢にも、挑発にも見えた。
「仕事、頑張ってね」
いつもと同じ言葉が、異様に艶を帯びて響く。
会社への道すがら、呼吸が落ち着かない。
街のざわめきの中で、自分の鼓動だけが浮いていた。
野間先輩の顔を思い出すたび、胃の奥が冷たくなる。
だが同時に、胸の奥に灼けるような衝動が広がっていく。
怒りか、嫉妬か、欲望か。区別がつかない。
その夜、寝室の灯りを落とす。
妻がシャワーから戻る音がした。
髪から滴る水音。パジャマが肌に貼りつく気配。
それだけで、喉が渇いた。
隣に横たわる彼女の体温が、手の甲に触れた瞬間、息が詰まる。
触れたいのに、触れられない。
彼女の中に別の男の影を見てしまう恐怖が、僕の手を凍らせた。
目を閉じると、脳裏に昨夜の映像が蘇る。
妻が見せた、知らない表情。
苦しそうで、どこか幸福そうだった。
その表情が、なぜか僕の胸を締めつけ、息を荒くさせた。
羞恥と興奮が入り混じる。
愛しているのに、破壊されたいと願う。
そんな歪んだ願望が、自分の中にあることを初めて知った。
「紗季……」
寝息のような声で名前を呼ぶ。
彼女は応えない。
暗闇の中で、彼女の肩がゆっくりと上下する。
そのリズムを見つめながら、僕は目を閉じた。
愛も、裏切りも、境界がなくなっていく。
夜が深まるたび、心の奥で何かが静かに形を変えていった。
【第3部】沈黙の果て──愛のかたちを見つめ直す朝
夜が明けた。
カーテンの隙間から、灰色の光が部屋をゆっくりと満たしていく。
紗季はまだ眠っていた。頬にかかる髪が、かすかに揺れるたびに影が動く。
その小さな呼吸の音が、やけに遠くに感じられた。
僕はベッドの端に座り、両手を組んだ。
胸の奥が空洞のように静かで、昨日までの熱が嘘のようだった。
それでも、体のどこかにはあの夜の震えが残っている。
怒りでも、哀しみでもない。
もっと根源的な何か──人が他者を愛そうとするときに生まれる、どうしようもない渇き。
彼女のスマートフォンは、今も机の上にある。
もう開くつもりはなかった。
知ってしまったものは、知る前の世界には戻れない。
だが、壊れたままでも人は生きていける。
それが愛というものなら、僕はそれを抱えたまま進むしかないのだろう。
ふと、紗季が寝返りを打った。
その肩越しに、昨夜の雨で濡れた街が見えた。
太陽が雲を割って、窓の外を照らしていた。
どこかで鳥の声がした。
その音が、心の奥で何かをとかすように響いた。
「悠人……？」
寝ぼけた声がした。
僕は微笑み、答えた。
「うん、起こしたかもな」
彼女は小さく首を振り、また目を閉じた。
まるで何も知らない少女のように。
その穏やかな寝顔を見つめながら、思った。
人は、完全には理解し合えない。
だからこそ、求め続ける。
触れようとして、痛み、また手を伸ばす。
愛とは、その反復の中でしか存在しない。
そして、僕はようやく息を吸い込んだ。
胸の奥の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
窓の外の光が、眠る妻の頬を照らす。
その光の中に、僕はまだ見ぬ未来の輪郭をぼんやりと見た。
【まとめ】知らなかった愛の輪郭──壊れた先に見えたもの
裏切りとは、愛の終わりではなく、形の変化だ。
嫉妬と絶望の奥には、必ず「まだ愛している」という事実が残る。
それを直視できる者だけが、本当の意味で再生を始められるのかもしれない。
佐伯悠人の物語は、許しの物語ではない。
それは、痛みを抱えたまま「人を愛するとはどういうことか」を学んだ一人の男の、静かな再生の記録だ。
そして読者のあなたへ。
この物語のどこかに、自分の影を見つけたなら、それはきっと偶然ではない。
愛も、裏切りも、私たちの中に同時に息づいている。
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