憧れの女上司と 菅日菜子

菅日菜子
【第1部】終電のない町でほどけるネクタイ──畳の匂いと未告白の一年
東京のビル風に擦られ続けた一年分のため息を、僕はその夜、田舎町の空に吐いた。営業先で商談をまとめ、気がつけば終電は過ぎ、タクシー運転手は「この先に旅館がひとつ」と言った。外灯の少ない道を滑る車窓に、海のない町の波音みたいな虫の声が重なる。
「ごめんね、段取り悪くて」と、助手席の菅日菜子は笑った。
「いえ、僕の調整不足です」
いつもの往復。けれどその夜に限って、言葉の縫い目がどこか甘くゆるい。
旅館は古かった。木戸を引くと、乾いた樹脂の匂い、磨かれた床の鈍い光。通された部屋の畳は、今朝の陽を少しだけ閉じ込めている。
「二部屋が埋まってて……」女将が申し訳なさそうにうつむく。「川沿いの別棟は工事中で」
つまり、ひと部屋。僕の鼓動はいったん暴れ、すぐにビジネスの速度に偽装する。
浴衣に着替えて戻ってきた上司は、いつもの濃紺のスーツから解放されて、白に淡い青の格子。襟足で結った髪の湿り。湯呑みに落ちる湯の音が、夜の最初の句読点になる。
「今日のプレゼン、助かった。あの補足、完璧だった」
「ありがとうございます」
「ほんとは、ずっと頼りにしてる」
言い慣れない真っ直ぐが投げられて、僕の胸の奥で未告白の一年がざわめく。旅館の壁は薄いのに、世界がやけに厚く静かだ。
川の黒い面が窓の外でうごめく。網戸の向こうで風鈴がひと鳴きし、何かの境界が一度だけ揺れる。
「ねえ」彼女は湯呑みの縁に指を添えたまま言う。「都会じゃ聞こえない音がする」
「たとえば?」
「あなたの、飲み込む音」
ごくり、と喉が裏切り、僕は視線を畳に落とす。
「日菜子さん」名前を呼んだのは、たぶん初めてだ。
その音の輪郭に、彼女のまつ毛がわずかに震えた。
布団は二組、間に掌二枚ほどの距離。僕らは同じ天井を見上げる。
『触れたい』のではなく、『触れないでいるための呼吸』が長く続いた。
「ねえ……」と、闇のなかで彼女が呼ぶ。
「はい」
「この町、終電がない代わりに、時間が遅くなるみたい」
「遅くなった時間って、どこへ行くんでしょう」
「たぶん、言えなかった言葉の居場所へ」
彼女の声は小さく、けれど布団の間を真っ直ぐに渡ってくる。僕は枕を指でつまみ、そこに指の跡を残す。言葉がゆっくり立ち上がる前の、静かな湿りだけが部屋に満ちていく。
【第2部】浴衣の袖口で迷子になる指先──「言えない」から始まる濡れた予兆
深夜、川の音は少し太くなり、風鈴は眠った。
月が襖の隙間を細く縫い、白い線で畳をなぞる。僕はその線を目でたどるふりをして、彼女の横顔の影を盗む。
「眠れない?」彼女が天井に尋ねる。
「少しだけ」
「私も」
布団の間の距離は相変わらず掌二枚。けれど夜は、距離の単位を変えてしまう。指の節、まつ毛一本、喉の上下。
「……言ってしまったら戻れないことってあるよね」
彼女の声が畳の目に吸い込まれる。
「戻らないほうが、まっすぐなこともあります」
僕の声が自分の声ではないように響く。呼吸が、互いの胸郭の形を覚えはじめる。
そのとき、遠くで缶が転がる音。自販機か、猫か、誰かの夜更かしの気配。世界がほんの少しこちらを向いた気がして、僕は喉の乾きを言い訳に起き上がる。
湯呑みに水を注ぐ。ふと、浴衣の袖が月の細い線を払った。
袖口から、昼間の残り香がひとすじ——紙とインク、柔軟剤のほのかな甘さ、雨上がりの歩道の鉄の匂い。
「あなた、匂いに敏感だよね」と、背中へ声が届く。
「すみません」
「謝ることじゃない。私はそれ、すごく好き」
振り向くと、彼女は肘で身を起こしていた。浴衣の胸元に、夜の空気がふくらむ。僕は目を逸らすかわりに視線を固定する。逃げないという不器用な正直さで。
「言って」彼女が告げる。「今日は上司じゃないほうの私に」
「日菜子さんを、ずっと見てきました。図表を指す指の癖、考える時の沈黙、歩く速さ、資料の紙を渡す時のためらい。遅れて戻ってくる香り。その全部が、僕の一日の目印でした」
言葉が尽きたあと、沈黙の中で別の会話が始まる。喉の奥の小さな音、呼気が布団に触れる擦過、襖の向こうの川のわずかな濁り。
「ねえ」彼女が少し笑う。「あなたのそういうところ、ほんとに好き」
その「好き」は、年月をかけて研がれた合鍵みたいに、僕の胸の錠前に穏やかに触れた。
僕は布団の端に掌を置く。彼女も同じ高さに掌を置く。畳の目一筋ぶんの隙間。そこに、体温に変わる前の熱が滞留する。
触れないまま、触れてしまう前の呼吸で互いの輪郭を削る。
「……っ」彼女の喉が短く揺れ、息が微かに震える。
言葉のかわりに、その震えが部屋を満たす。
浴衣の袖がまた月の線を払う。そのたび、畳の匂いが濃くなり、世界の粒子が少しずつ大きくなる。
「ここにいるって、すごいことだね」
「はい」
「東京だと、たぶん言えなかった」
「僕も」
掌の距離はそのまま。でも、距離というものの定義がもう役に立たない。
彼女は小さく息を吸って、吐く。そのリズムに、薄い声が混じる。甘いとか熱いとかではなく、言えなかった日々の角を丸める音。
「…ん」
呼吸の語尾だけが、夜の縁でやわらかくほどけた。
僕らは、触れないまま、触れたあとの世界の手前に長く留まった。
【第3部】「戻らない」かわりに灯す言葉──境界が消えても失われないもの
夜の深さは底に達し、川は太い黒の帯になった。僕らは布団の上で向きを変え、互いの横顔が同じ枕の上に並ぶ角度を探す。掌はまだ畳に、けれど指先の影が重なり合う。
「戻れないね」と彼女は言い、笑って首を振る。「ごめん、違う。戻らない」
「戻らないほうが、正直ですね」
「うん。ずっと、言えなかった。あなたの丁寧さに救われてたこと」
彼女の声が、天井の木目をゆっくり撫でる。その軌跡が、僕の胸骨の上を通り過ぎる。
僕は、やっとひとつだけ距離を変える。掌を畳から離し、布団の縁をなぞる。彼女も同じようにして、布のしわが小さく重なる。
指は触れない。けれど、布越しの温度が言葉を照らす。
「日菜子さん」
「うん」
「好きです」
それは幼すぎるほど正面からで、夜の深さに似合わない単語かもしれない。けれど、いちばん遅く、いちばん早く着く言葉だった。
ふいに、遠くで始発前のトラックが通る音。薄い朝の気配。
彼女は小さく笑って、布団のしわをひとつ整える。
「私も。好き。——この言い方、古風かな」
「ぜんぜん」
「あなたに似合う」
呼吸の輪郭が重なる。声にならない小さな音が、ふたつ、みっつ。
「……っ」
「……」
それは喘鳴でも嬌態でもなく、長い自制の末に生まれた、生活の底からの合図。
僕らは結局、最後の線を越えないまま、夜明けの縁に立った。
越えないという選択が、こんなにも豊かな熱を持つことを、僕は知らなかった。
彼女の頬にかかる髪を、視線だけで払う。
「東京に戻ったら、ルールを決めよう」
「どんな」
「誰も傷つけないための、私たちの速度」
「はい」
外は白んで、川が銀に戻る。旅館の廊下が遠くで目を覚ます音。
僕らは布団をたたみ、浴衣の帯を結び直す。彼女は鏡で襟を整え、僕のネクタイを見て目を細める。
「いつものあなたに戻ってきた」
「ここに置いていくものもあります」
「どれを?」
「言えない言葉の重さを、少し」
彼女は頷いて、ドアに手をかける。
「じゃあ、持ち帰るのは、言えた言葉の明るさ」
廊下の先、朝の土間にパンの匂い。靴をはく音が、出発の拍子を打つ。
境界は消えたのではなく、別の形で重なった。上司と部下、女と男、昼と夜。
僕らはそれぞれの速度で同じ方向へ歩き出す。互いの歩幅が、不思議と今日は合っていた。
まとめ──触れないまま触れた夜は、約束より強い灯りになる
終電のない町の古い旅館で、僕らは「触れたい」を選ばず、「触れないまま」を深く照らした。
畳の匂い、川の黒、浴衣の袖が払う月の線。——それらは、欲望の臨界を否定するためではなく、欲望の形を変えるためにあった。
言葉は遅く、しかし確実に届き、「戻れない」ではなく「戻らない」を選ぶ覚悟に変わった。
触れないままの呼吸は、単なる我慢ではない。自分たちの速度で、誰も傷つけずに進むための、最初の共同作業だった。
読者へ。
世界には、境界線の手前でしか咲かない花がある。指先よりも先に、呼吸が触れる夜。
そこに灯る小さな明かりは、約束より長く続く。
——あなたがどこにいても、ふいに風鈴が鳴るみたいに思い出す、静かな熱として。
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