汗と愛液にまみれた肉体内申書 愛する息子の進学の為だったのに、私は身も心もカレに溺れてしまった…。 瀬尾礼子
この作品は単なる官能ではなく、倫理と感情の境界線を見つめる濃密な人間ドラマだ。
抑えた映像と繊細な心理描写が、登場人物の心のひび割れを静かに映し出す。
苦しみながらも母として、女として、自分を取り戻そうとする姿が胸を締めつける。
第1部 夕立のあとに残った匂い──母であること、女であることの境界線
新潟の山沿いにある町。
夏になると湿気を孕んだ風が、午後になるたび重たく揺れる。
森川涼子、四十二歳。
夫を病で亡くして七年。中学生だった息子の遥真は、いまは都内の有名進学校に通っている。
彼の夢は国立大学への進学。涼子の夢は、ただそれを見届けること。
午前五時。まだ朝露の残るベランダで洗濯物を干す涼子の指が、少し震えていた。
風が通り抜けるたび、薄い部屋着の裾が肌に貼りつき、離れていく。
遠くで電車の走る音が響き、生活の時間が始まる。
けれど彼女の心の奥には、誰にも触れられない“静かなざわめき”が居座っていた。
──私はもう、母親でしかないのだろうか。
仕事は市役所の臨時職員。安定とは言いがたいが、息子の学費のためならどんな労働も厭わない。
それでも夜、シャワーを浴びたあと鏡を覗くたび、胸の奥に冷たい疑問が浮かぶ。
「この身体は、もう誰のものでもないの?」
問いは声にならず、曇った鏡の中で揺れて消えた。
そんなある日、進路相談の封筒が学校から届く。
担任の名は──大島悠真。三十七歳。
若い頃は陸上選手だったらしく、少し浅黒い肌にシャツの白さが映える。
息子が担任を信頼していることは知っていた。
だが封筒を手にした瞬間、涼子の胸の奥で小さなざらつきが広がる。
面談は梅雨の終わりの午後に設定された。
校舎に着くと、廊下には夏の湿気が充満していた。
ガラス越しに見える空は、今にも降り出しそうな色をしている。
待機椅子に座ると、背中を伝って一筋の汗が落ちていく。
それを拭う間もなく、「森川さん、どうぞ」と低い声が響いた。
教室に入る。
息子の隣に座ると、大島が柔らかく笑った。
その瞬間、時間がわずかに歪む。
笑顔に混じるものが、教師としての距離感を越えている気がした。
「遥真くんの成績は申し分ありません。ただ――」
彼は言葉を切り、机の上の書類に指を滑らせた。
その指の動きが妙にゆっくりで、紙の音がやけに大きく響いた。
涼子は息をのみ、無意識に太腿を閉じた。
外では雷鳴の前触れのように、空気が静かに震えている。
彼女は知らないふりをした。
母親として、そうするしかなかった。
第1部(後半) 夕立のあとに残った匂い──母であること、女であることの境界線
面談が終わり、息子が先に席を立った。
「母さん、俺、職員室行ってくるから。」
そう言って軽く笑った遥真の背中が、廊下の向こうに消えていく。
教室には、涼子と大島の二人だけが残った。
扇風機が低い音で回り、白いカーテンがゆっくりと揺れる。
その布の動きに合わせて、外の空気が少しずつ入り込んできた。
湿気を帯びた風が、頬にまとわりつく。
「森川さん。」
名を呼ばれた瞬間、涼子の背筋がぴんと伸びる。
「実は…遥真くんの件で少し相談がありまして。」
彼の声は、先ほどよりもわずかに低く、穏やかだった。
机の上には書類が広がり、ペンの先がその上で静止する。
大島は涼子を見ず、窓の外に視線を送った。
「推薦の件ですが、今年は競争が激しくて…」
そこまで言って、彼は言葉を止めた。
沈黙が訪れる。
窓を打つ雨の音が、唐突に強くなった。
「先生、何か…問題があるんですか?」
涼子は声を絞り出すようにして訊いた。
彼は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
黒目の奥に、光が宿っている。
その光が何を意味するのか、涼子には分からなかった。
ただ、心臓の鼓動が急に早くなった。
外の雨が、ざあっと降り出す。
教室の屋根を叩く音が、一瞬にして世界を覆った。
話はそれきり、進まなかった。
大島は「今日はこれで」と短く告げ、窓の鍵を確かめた。
礼を言って立ち上がると、涼子の足元に冷たい空気が流れこんだ。
靴の中に雨の湿り気が染みている。
階段を下りると、校舎の出口の前で一人の生徒が傘を差し出した。
「お母さん、これ、忘れ物です。」
涼子は微笑んで受け取ったが、その笑みは少し震えていた。
校門を出た瞬間、空の匂いが変わる。
雨に混じるアスファルトの香り。
さっきまで教室に漂っていた湿気の匂いが、まだ指先に残っていた。
帰り道、彼女は何度も手を握りしめた。
そのたびに、掌の中の熱が逃げていくようで怖かった。
──私はいったい、何に怯えているのだろう。
バス停の屋根から滴る雨が、肩に落ちる。
その冷たさに身をすくめながら、涼子は目を閉じた。
まぶたの裏で、さっきの教室が蘇る。
彼の声、机の上の指の動き、あの視線の奥にあった“何か”。
胸の奥が静かに疼く。
それは罪の形をしていない。
けれど、確かに彼女の中に生まれてしまったものだった。
第2部 閉ざされた教室と揺れる呼吸──沈黙の熱を抱きしめて
夏の夕立が過ぎたあとの校舎は、まるで別の世界のようだった。
廊下の窓に残る雨粒が橙色の光を受けてきらめく。
帰りのバスを待つはずだった涼子は、傘を職員室に置き忘れたことを思い出す。
誰もいない廊下を歩き、濡れた床の上にヒールの音を落とした。
教室の扉を開けると、夕陽の名残りが黒板に薄く差している。
そしてその奥に、大島の姿があった。
白いワイシャツの袖をまくり上げ、書類を整理している。
背中に光が落ち、輪郭が少しぼやけて見えた。
「森川さん、まだいらしたんですか。」
穏やかな声だったが、そこに何かを隠している気配があった。
涼子は傘を取りに来ただけのつもりだった。
けれど、言葉が喉に詰まったまま出てこない。
教室の中の空気が、夕立の湿度をまだ孕んでいる。
窓際の机の上には、一枚の推薦書が置かれていた。
「これが、遥真くんの書類です。」
大島がそれを差し出す。指先が紙の端をなぞり、
その動きに合わせて微かな風が起こる。
紙の匂いが、乾きかけた汗と混じって漂った。
涼子は受け取ろうと手を伸ばす。
その瞬間、彼の指先がかすかに触れた――ように感じた。
実際には触れていないのかもしれない。
けれど、体のどこかが熱を帯びた。
沈黙。
扇風機が回る音だけが、二人の間を満たしていた。
「森川さん、」
呼ばれて、彼女は顔を上げる。
「あなたも、よく頑張ってこられましたね。」
唐突な言葉。
けれどその響きは、妙に優しかった。
何かを見透かすような、あるいは赦すような。
涼子は笑おうとした。けれど、喉の奥からうまく声が出ない。
何かが崩れ始めていた。
その“何か”が何なのか、彼女には分からない。
ただ、胸の内側が静かに震えている。
外では、再び小雨が降り始めていた。
窓を叩く雨の音が、二人のあいだにある距離を曖昧にしていく。
誰もいない教室。
外界から切り離されたような密閉感。
「……森川さん、」
再び名前を呼ぶ声がした。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
何も言えないまま、息を吸い込み、吐く。
呼吸の音が、かすかに重なった。
それだけのことだった。
それだけなのに、世界がひとつ変わってしまったように感じた。
やがて大島は窓を閉め、背を向けたまま言った。
「推薦の件は、僕に任せてください。」
その声には、説明のつかない熱があった。
涼子はただうなずき、傘を手に取った。
教室を出る直前、
彼女は振り返りかけて、やめた。
何かを見てしまえば、もう戻れない気がしたからだ。
廊下に出ると、空気が一段冷たくなっていた。
階段の窓から見える街の灯が、濡れた道路に滲んでいる。
その光が、胸の奥で何かをゆっくりと燃やしていた。
──息が、まだ整わない。
第3部 夜の帳と罪の体温──もう戻れない母と教師
夜が降りてくると、町は一枚の薄布で包まれたように静まり返った。
外の空気は雨上がりの匂いを残し、遠くで虫の声が重なり合っている。
礼子は机の上の灯を落とし、カーテンを開けた。
そこには、昼の光とはまったく違う世界が広がっていた。
息子は試験勉強に没頭している。
ページをめくる音が、静かなリズムを刻む。
その音を聞きながら、礼子は胸の奥に沈んでいる何かの重さを感じていた。
それは、思い出そうとすればするほど形を変える。
熱のようでもあり、罪のようでもある。
数日前の午後――
教室の静けさと、あの湿った空気。
触れたわけではない。
けれどあのとき、確かに何かが彼女の中でほどけた。
それ以来、世界の輪郭が少しずつぼやけている。
息子の笑顔も、日常の音も、以前と同じなのにどこか遠い。
そして、夜になると体の奥でかすかな疼きが蘇る。
それは欲望ではなく、空洞に似た痛み。
机の上のスマートフォンが震えた。
画面には短いメッセージ。
――「結果が出ました。明日、学校でお話しできますか」
その文面に、礼子の心臓が跳ねる。
合格の知らせであることはわかっていた。
けれど「学校で」という言葉の奥に、
あの日の記憶が影のように潜んでいる気がした。
翌日、校舎に着くと、夕暮れの光が窓ガラスを赤く染めていた。
職員室の扉を開けると、大島が立ち上がった。
彼は短く「おめでとうございます」と言い、封筒を差し出した。
礼子は言葉を失い、ただその手元を見つめた。
二人の間には、机一つ分の距離。
けれど、そこに満ちているものは言葉では掬えない。
喜びと後悔と、わずかな安堵が渦を巻いていた。
礼子は深く頭を下げた。
「先生、本当に…ありがとうございました。」
その声が震えた。
涙が出るほどの感謝なのか、別の何かなのか、自分でもわからなかった。
校舎を出ると、夜の風が吹いた。
雨の匂いがまだ残っている。
遠くで電車の音が聞こえ、街の灯が瞬く。
その光を見つめながら、礼子はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の熱はまだ消えない。
けれど、それをもう誰にも明かすことはない。
母として、女として、
一度だけ越えてしまった線を、
彼女は生涯、胸の奥で抱えて生きていくのだろう。
まとめ──沈黙という名の告白
人は、誰のために生きるのだろう。
母として、妻として、社会の中の誰かとして。
その問いは礼子の中で、ゆっくりと溶けながら残り続けていた。
彼女の罪は、誰にも見えない。
けれどその沈黙こそが、彼女の告白だった。
声に出すことのない思いが、夜の空気に溶けていくたび、
彼女は自分の中の“女”という存在と再び出会ってしまう。
愛はときに、正しさを壊してしまう。
そして壊れたあとに残るのは、冷たい後悔ではなく、
人が生きていくための〈熱〉そのものだ。
息子の笑顔を見つめながら、
礼子は心の奥でひとつの祈りを結んだ。
どうかこの痛みが、彼を強くする糧になりますように――。
雨の匂いを含んだ風が、カーテンを揺らした。
その音はまるで、彼女の胸の奥に残る余熱のように静かだった。
沈黙は、罰ではない。
沈黙とは、愛を言葉にできないほど抱きしめた人間だけが持つ、
もう一つの真実なのだ。
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