50代 義母の婿喰い 出産前夜・娘婿と貪(むさぼ)り合う肉体 鈴河めぐみ
出産を控えた娘、そしてその家族を支える母。だが、表面の平穏の裏には、抑えきれない想いと記憶の重なりが潜んでいる。
日常の何気ない仕草や視線に宿る人間の欲望と葛藤を、鈴河めぐみが静謐な表情で演じ切る。
母であり、ひとりの女でもある主人公の複雑な心理を丁寧に表現し、観る者に“愛とは何か”を問いかける一作。
湿った空気、静かな雨音――情念の余韻が長く残る秀作ドラマ。
【第1部】沈黙の宿り──出産前夜、小樽の雨に濡れる家
春の名残がまだ街角に貼りつき、融けかけた雪の白さが石畳の縁にほそく残っていた。小樽の港は濡れて重く、曇天の下で、船の影だけがゆっくりと呼吸をしているように見える。その夜、私は篠原澄江、五十六歳の誕生日であった。祝う相手もなく、台所の蛍光灯は一段暗く、茶碗を伏せたままの食卓には湯気の名残もない。壁掛けの時計がひと打ちするたび、胸の奥の古い部屋に鍵がかかり直すような音がした。
電話は、夕餉を片づけようとしていた指先を止めさせる鈴のように鳴った。娘の紗世が破水したという。病院の女性の落ち着いた声は、時候の挨拶のように淡々としていて、かえって事の切迫を感じさせた。「今夜、だいじょうぶでしょうか」そう訊かれて、私ははいと答えた。娘の夫、つまり私の婿である大輝が、準備のためこちらに寄り、朝の気配を待って病院へ向かうという。
受話器を置くと、家はさらに広くなった。椅子と椅子のあいだ、廊下と玄関のあいだ、沈黙は水のようにあふれ、私の足首に冷たくまとわりついた。夫は札幌に単身赴任で、この家の夜は長らくひとりで過ごすのが常になっていた。女は、ひとりの夜の長さに、自分の年齢を数えるのだろうか。私は急須に茶葉を落とし、湯を注いだ。立ち上る湯気の薄い白さに、若い日の台所の明るさが、ふっと重なる瞬間があった。湯気はいつでも同じ形をしない。けれど、確かにどこかへ導いていく。そんな気がして、私は思わず、鼻先で香りを探る少女のような姿勢になっていた。
玄関のチャイムが二度、短く鳴った。外は雨で、ガラス戸の向こうに滴がいく筋も走っている。戸を引くと、灯に照らされて立つ大輝の白いシャツが、雨に濡れて淡い灰を帯びていた。彼はいつもより幼く見え、眉のあたりに睡眠不足の影を宿していた。「お世話になります、義母さん」彼の声は静かで、しかし少しだけ大きかった。言葉を置く場所を探している人の声は、どうしてこう耳に残るのだろう。私は「さ、上がって」とだけ言った。玄関の段差に置いたタオルを渡すと、彼の手が一瞬、私の指と布越しに重なった。
触れてはいけない、という言葉が、あらかじめ用意されていたかのように頭のどこかで鳴った。けれど、その禁止の札は、まるで雨でにじんだ墨書のように、輪郭が曖昧だった。私は笑みをつくり、台所へ先に立った。湯を沸かし直す。やかんの底に灯が円くともって、金属のうちから小さな音が立ち上る。家の呼吸と人の呼吸は、ときどきぴたりと重なる。そんな瞬間が万一にもあると、女はそれを記憶の奥に仕舞い、鍵をかけ、そしてなぜか、ときどき鍵穴に耳を当てる。
紗世が事故で入院していた数ヶ月前、私は何度となくこの台所に同じ数の湯飲みを並べた。あのとき、彼は不器用に茶托を返し、私は笑って、やや低めの声で「いいのよ」と言った。若い夫婦の食卓に、母親の手が入ることの居心地の悪さを、私はわきまえていたつもりだった。けれど、お椀を渡す拍子に、袖がかすかに触れたあの夜、私は自分の指先が、思い出すことを覚えてしまった。忘れることと覚えることは、ときに同じ踊りの二つのステップにすぎない。
今夜、台所の灯は弱い。雨の音が音階を持ち、外の世界は私の家の秘密を知らないふりをしている。大輝は椅子に腰をおろし、濡れた髪を手で払った。しずくが指の背をつたう。私はふきんを差し出し、彼は小さく礼を述べた。「紗世は、きっと大丈夫です」そう言った声は、自分に言い聞かせる子どもの祈りに似ていた。私はうなずき、急須を傾けた。湯が茶葉に触れてほどける音は、意識しなければ聞こえないような微細なものだが、そういう音ほど、女の心に長く残る。
客間へ案内し、布団を敷いた。襖を閉めると、向こうにひとつの呼吸が置かれたように感じた。家は呼吸の数で広さを変える。ひとつ増えただけで、廊下が長くなり、柱が細くなる。私は寝室に戻り、灯を消した。暗がりの中で、雨はますます細くなり、しかし均(なら)されていく。私は目を閉じたが、眠気は来なかった。眠りは、呼ばれて来るものではないらしい。むしろ、呼ぶほど遠ざかる。そうして、遠ざかるものほど、近くのものをくっきりと浮かび上がらせる。
あのとき、彼が言った言葉が、静かに甦る。「本当に、紗世さんに似ていますね」それは食卓に茶碗を並べていたときのことで、私は笑って「母娘ですもの」と返した。けれど、その一言は、見えない針を私の胸にそっと立てた。似ているのは顔のつくりではなく、湯気の向こうで器を扱う手つきであり、誰かのために湯を沸かすという身振りであり、季節の小皿の置き場所に迷う癖であり、そのような、どこにも書き留められない細部だった。女というものは、細部でできている。男がそれに気づくとき、女は一歩、秘密の中へ踏み入れてしまう。
私は横向きに寝返りを打ち、襖の方角に耳を澄ました。布に触れる音が、かすかに波立っている。彼も眠れないのだろうか。眠れない二人が、襖一枚をはさみ、同じ家の中で別々に横たわっているという事実が、夜の重さをもう一枚増やしていく。私は掌を胸に置いた。心臓が、雨よりも規則的に、しかし雨よりも近くで鳴っている。遠くのものは優しく、近くのものは残酷だ、という感想が、ふと浮かんで消えた。
私は闇のなかに、娘の産声を予習するように耳を澄ませた。まだどこにも存在しない声は、しかしすでにこの家の梁(はり)に染みこんでいるように思えた。生まれるものは、いつでも少し前から家にいる。私は昔、祖母からそう教わった。生まれるものが先に家に入り、死ぬものがあとから出ていくのだと。そう考えると、この家に今夜ひとつ増えた呼吸は、きっとその子の代理なのだろう。そんなふうに思った瞬間、私は自分の喉が、ひどく乾いていることに気づいた。水を飲もうと身を起こしかけ、けれどやめた。立ち上がるというたったそれだけの身振りが、何か大きな意味を持ってしまう予感がしたからである。
——人が境界に近づくとき、世界は音を小さくする。私はそれを何度か経験してきた。少女のとき、信号が変わる前の横断歩道。若い妻であった頃、台所に落ちる夕方の斜光。母になってから、まだ言葉を持たない娘の指が、初めて私の頬に触れた瞬間。音が消えたとき、世界はあたかもこちらの選択を待っている。待たれていると感じたとき、選択はいつも遅れる。遅れた選択の行き先は、たいてい、禁忌と呼ばれる薄い林の手前である。
雨はなおも降り、しかしその細さの中で濡れた石畳がほの白く光っている気配がした。私は目を閉じたまま、廊下の向こうに灯が円く残っている情景を想像した。客間の襖はきちんと閉じ、布団の端が正しく折り返され、枕元に置いたタオルに梅の小紋がうっすら染められている。そういう整いが、かえって不穏を招く夜がある。秩序は、ほんとうのところ、人を落ち着かせはしない。秩序はむしろ、乱れを鮮やかにする額縁なのだ。
私は掌の湿りに気づいた。ゆっくりと指を開けば、皮膚が夜気を吸って冷たくなっていく。年齢というものは、皮膚の温度差に宿ると最近知った。若いときは、冷えた指先がすぐ自分の体温に取り込まれた。今は、取り込むまでの時間が、すこし延びた。その延びた時間の隙間に、ひとつの影が立つことがある。影は名を持たず、顔もない。けれど、私が鍵をかけた古い部屋の前に、いつのまにか立っている。ノックはしない。立っているだけで、充分なのだ。
私はそこで、思いきって呼吸を深くした。胸の奥に、潮のようなものが往復する。港町の女は、知らず潮を吸って生きている、と祖母は言った。港はどんな夜にも息をしている。決して眠りきらない場所の近くで育った女は、眠らない何かの気配を、つい夜に探してしまう。大輝の呼吸が襖の向こうに置かれたまま、わずかに揺れている気がした。揺れは、こちらを呼ぶのではない。こちらが勝手に近づいていくのだ。私はそのことを、誰にも責められない形で理解した。
電話の呼び出し音が、夜更けを切り裂いたのは、そのすぐあとだった。どこか他所の家に鳴っているような、遠い響きだった。私は身を起こし、廊下の灯を点けた。灯は小さく、しかし確かに黄味を帯びて廊下の節目を浮かび上がらせた。受話器を取ると、病院の女性が、静かに、陣痛の間隔が短くなってきたことを伝えた。「朝を待たずに、来ていただけると安心です」私ははいと答え、礼を言い、受話器をそっと戻した。手の中に、電話の熱が残った。熱は、掌の真ん中から腕へ、肩口へと薄く移っていく。
客間の襖の前に立つと、内側の気配がぴたりと止まった。私は「大輝さん」と呼びかけた。名を呼ぶだけのことが、これほど胸の奥に響く夜も珍しい。襖はすぐに開かず、やがて静かに、線香の煙のように少しずつ動いた。彼は起き上がり、半身をこちらに向けた。雨の匂いが、布団の綿にほんのり残っていた。私は要件だけを短く伝えた。彼はうなずき、すぐに支度を始めた。動作が几帳面であることに、私はほっとし、同時に言いようのない不安を覚えた。几帳面さは、ときに人の心の震えを一枚の紙の下に隠す作法だから。
玄関で彼は靴を履き、私は傘を二本取り出した。取っ手の冷たさが掌に沿って、すっと背筋を正した。扉を開けると、雨は先ほどよりも細く、しかし止みきらない気配で降っていた。世界は迷っている夜がある。降りやむべきか、降り続けるべきか、雨自身が逡巡しているような夜。私たちは傘を開いた。骨が花のように広がる音が、同時に重なった。重なるという出来事は、いつでも少し危険だ。危険は、しかし花の形をしていることがある。
門までの短いあいだ、私は言葉を探した。見つける前に、私たちは門に着いた。そこから先は、別々の道になる。彼は車へ、私は戸締りと支度へ。それでも、門の下で、ほんの短い間、私たちは同じ雨に包まれた。雨は傘の外側に降り、内側は乾いている。乾いた小さな空間の中で、私はふと、自分の年齢というものを忘れた。忘れることは、罪ではない。ただ、忘れたふりを続けることが、罪に似てくるのだ。私は軽くうなずいて見せた。彼も、同じ深さでうなずいた。うなずきは、抱擁に似ている。抱かない抱擁は、この世に確かに存在する。抱かないものにこそ、形のない重さが宿る。
彼の車のライトが雨を切り、細い道に白い帯を敷いた。私は門の下で傘を閉じ、しばし、その帯が角を曲がって消えるまで見送った。世界はふたたび音を小さくし、港の息づかいだけが低く残った。家へ戻ると、玄関の床に落ちた水滴が、いくつか並んでいた。私はふきんでそれを拭った。拭き取るという行為は、いつも同じ手つきなのに、拭き取る対象だけが毎回違う。今夜拭き取ったのは、水滴と、それから、言葉にしそびれた幾つかの思いだったのかもしれない。
廊下の灯を消し、台所の時計を見上げる。針は日付の境を越えて少し、朝に近いほうへ傾いていた。私は急須をすすぎ、布巾を絞り、指先の水気を払った。掌に残った微かな湿りを、私は最後まで拭わなかった。湿りは、今夜という夜が確かにあったことの、小さな証拠のように思えたからである。窓ガラスをなぞれば、外の闇は薄く、春の黎明が、どこかで息を潜めている気配がした。生まれるものは、もう来ている。私はそう心の中で呟いた。その声は誰にも届かないが、私自身の耳には、はっきりと届いていた。
女が母であり、母が女であるという、あたりまえでいて一度も習わなかった問題が、静かに机の上に置かれている。解き方は載っていない。雨はゆるみ、港の方角から冷たい匂いが一筋、廊下を渡ってくる。私は襖に背をあずけ、目を閉じた。世界が小さな音を集め、私の胸に押し当ててくるような、そんな夜の終わりであった。明け方は、かならず来る。けれど、来る直前の長い一瞬に、女はもっとも女であり、母はもっとも母である。境界は、その一瞬のために存在する。私はその境界の手前で、掌を重ね合わせ、そっと祈った。祈りは言葉ではない。祈りは、灯が消える直前の、微かな明るさなのである。
【第2部】雨音の下で──抑えきれない沈黙
夜が深まり、港の方角から潮の匂いが濃くなってきた。
篠原澄江は寝具に身を横たえながら、襖の向こうで息づく婿の気配を聞いていた。
雨は細く、しかし途切れない。音は次第に、家そのものの呼吸と同化していく。
眠ろうとしても眠れない。
瞼を閉じると、昼間見た彼の姿が、まぶたの裏に淡く残る。
濡れた髪、指先の節のかたち、白いシャツの襟の皺。
思い出すという行為ほど、罪深いものはない。記憶は、現実よりも鮮明に触れる。
私はゆっくりと上体を起こし、暗闇のなかで息を整えた。
襖の方から、衣擦れの音が微かに届いた。
音は遠慮がちで、それゆえに近い。
ひとの存在が、ただの気配になったときほど、危うく美しい瞬間はない。
——眠れませんか。
声が、雨の音に紛れるように届いた。
私は答えられなかった。答えれば、何かが壊れる気がした。
沈黙の中で、音と呼吸が絡まり合う。
外の雨が家の瓦を打つリズムと、彼の呼吸の間隔が、ぴたりと重なった。
私は自分の掌を胸に置いた。
心臓が、遠くの雷のように微かに鳴っている。
皮膚の下で、血の流れがゆっくりと方向を変えるのを感じる。
それは生の証であり、同時に女としての目覚めの音でもあった。
襖の向こうで、彼が立ち上がる気配がした。
足音は廊下に出ず、ただ襖の前で止まった。
この世には、声を出さぬままに語られる祈りがある。
その祈りは、触れぬために捧げられる。
私は襖の方を向き、目を閉じた。
何も起こらない。けれど、何かが起こっている。
静寂が、まるで一枚の布のように私の上に降りてくる。
その重さに、私は呼吸を奪われ、同時に満たされた。
——なぜ、こんな夜に生まれてしまったのだろう。
私は心の中で呟いた。
若い日々のすべてが、いまこの雨音の中で甦る。
女であることを恐れ、母であることに縋り、それでも誰かに見られたいと願った夜。
そうした夜の亡霊たちが、雨粒のひとつひとつに潜んでいる気がした。
雨は少し強くなり、家の外壁を優しく叩く。
彼の気配はまだ襖の前にある。
私はその存在を確かめるように、そっと息を吐いた。
その息が空気に触れた瞬間、世界が微かに震えた。
——触れていないのに、触れたように感じる。
それは錯覚ではない。
人の心は、想いの温度だけで相手を包みこむことができる。
母が子を思う夜、恋人が眠る背中を想う夜、祈る人が神を探す夜。
みな同じ手のかたちで、見えないものに触れている。
やがて足音が遠のき、襖の向こうは静かになった。
私は深く息を吸い、胸の中の何かがほどけていくのを感じた。
罪とは、触れることではなく、触れたいと思うその心に宿るのだろう。
ならば私は、すでに罪の只中にいる。
その罪のあたたかさを、私は生涯忘れない気がした。
【第3部】愛と罪の余韻──雨が上がる朝にて
夜明けは、いつも思いがけず静かに訪れる。
外の雨はいつの間にか止み、雲の切れ間からわずかな光が射していた。
その光は、まるで誰かがそっと撫でたように、障子の紙肌を透かして滲んでくる。
港の方角からは汽笛の遠音が届き、世界がゆっくりと目を覚まそうとしていた。
篠原澄江は、台所に立っていた。
やかんの中で水がまだ眠っている。
手を伸ばして火を点けると、青い炎が一筋立ち上がり、夜の名残を追い払うように揺れた。
その揺れを見つめながら、彼女は息を吐いた。
何も起こらなかったはずの夜。
けれど確かに、何かが起こってしまった夜。
襖の向こうにいた彼の気配、雨の音、そして沈黙の重み――それらがまだ、この家の空気のどこかに潜んでいる気がした。
窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
庭の石畳には雨粒がまだ残っていて、そこに差し込む光が細かな虹を描いている。
その虹は一瞬で消えたが、消えたあとにこそ、確かな色が心に残った。
居間に戻ると、玄関に置いた傘が二本、並んで立てかけられているのが目に入った。
彼のものと、自分のもの。
昨夜、門先まで共に歩いたとき、互いに差し出した手の記憶が蘇る。
指は触れなかった。けれど、心のどこかでは確かに、何かが結ばれていた。
「生まれる」という言葉の意味を、澄江は静かに思った。
娘の命がいまこの瞬間にも新しい世界を押し開こうとしている。
そして自分の中でも、何か別の“生”が芽吹こうとしている。
それは赦しに似ていて、罪のようでもあり、同時に祈りのかたちにも似ていた。
電話の音が鳴った。
短い呼び出し音のあと、病院の女性の声が弾むように届いた。
「元気な女の子です」
その言葉を聞いた瞬間、澄江の胸の奥にあった緊張がふっとほどけた。
涙が頬をつたう。けれどそれは悲しみではなかった。
雨上がりの匂いが部屋いっぱいに広がり、世界が一度きりの新しい呼吸をした。
彼――大輝――からの電話も続いた。
「義母さん……母子ともに元気です」
その声は、昨夜の沈黙よりも穏やかで、しかしどこか震えていた。
澄江は短く「よかった」とだけ答えた。
その二文字の間に、言葉にならない思いがいくつも沈んでいた。
通話を終え、受話器を置いたあと、澄江はしばらくその手を見つめていた。
掌の中心には、まだ夜の温度がかすかに残っているようだった。
それを振り払うように、手を洗った。
水が流れ落ちる音が、まるで雨の余韻を再現するように優しかった。
やがて陽が高く昇り、家の中が少しずつ明るくなる。
雨上がりの光には、過去と未来の境が曖昧に滲んでいる。
澄江は縁側に座り、濡れた庭を見つめた。
遠くでカモメが鳴いた。
その声に合わせるように、胸の奥で何かが小さく鳴った。
――罪とは、愛の影である。
誰かを思うことに、清らかさと汚れが混ざり合う。
けれどその混じりこそが、人を人たらしめるのだろう。
澄江はそう思い、静かに目を閉じた。
娘の赤子は、もうこの世にいる。
新しい命が生まれたその朝、澄江はもう一度、自分自身の内に小さな息吹を感じていた。
それは、過ちを責める声ではなかった。
むしろ、過ちの中にも確かに宿る“生”を、赦す声だった。
風が吹き抜け、庭の水面がきらめいた。
その光のなかで、澄江はそっと呟いた。
「ありがとう」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
けれど、その一言で世界が静かに整い、心の奥で何かが解けていくのを感じた。
空はもう、完全に晴れていた。
そして澄江は知っていた。
――この朝を越えたなら、もう戻れない。
だがそれでよい。
人は、戻れない場所でしか、ほんとうの生を始められないのだから。
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