綺麗な近所の奥さんが 星明日菜

星明日菜
平凡な午後に訪れたメンズサロンで再会する、静かで切ない物語。
記憶の中の微笑みと、いま目の前で触れる距離。その重なりが生む緊張と甘い戸惑い。
互いに秘密を抱えたまま、現実と幻想のあいだを揺れる二人。
見慣れた街が、もう同じ景色に見えなくなる。
“人の心と距離の近さ”を丁寧に描いた、大人のためのヒューマン・ドラマ作品です。
【第1部】湿った風の午後──偶然の再会が告げたもの
東京の外れ、武蔵野の住宅街。
三十五歳の私は、在宅勤務の昼下がり、凝り固まった肩をほぐそうと小さなメンズエステの扉を開いた。
店内には淡いジャスミンの香りが満ち、薄暗い照明が眠気と静寂を誘う。
施術室に通され、目を閉じたとき、耳元で小さく囁く声がした。
「本日は、私が担当させていただきますね」
その声に、心臓がわずかに跳ねた。
近所のスーパーで、週に何度か見かける女性──
白いシャツに細い手首、上品な笑みを浮かべるあの人に、声が似ていた。
名札には「梨花」とあった。
だが、その指先が背中に触れた瞬間、疑念は熱へと変わる。
わずかに冷えたオイルの感触、ゆっくりと滑る掌の重さ。
その動きの奥に、どこか記憶のような優しさがあった。
呼吸の音が重なるたび、身体の奥で何かが目覚めていく。
触れてはいけない真実が、指の温度を通して忍び寄る。
「……力、入ってますね」
「ええ、少しだけ、緊張してるのかもしれません」
短い会話のあと、沈黙が訪れた。
背中をなぞるその手の軌跡は、もう施術のためのものではなかった。
心の奥を覗かれるような錯覚。
私は息を潜め、彼女の指が描く見えない文字を追いかけた。
──あの人だ。
そう確信したとき、時間がゆっくりと軋んで止まった。
【第2部】沈黙の指先──触れ合う距離に溶ける秘密
彼女──梨花の指先が、背中を滑っていた。
オイルの熱が皮膚の奥まで染み込み、私の呼吸は浅くなる。
それは痛みでも快楽でもなく、
「人に触れられること」を久しく忘れていた身体の、
静かな驚きのようなものだった。
部屋の時計の音が、やけに遠くで響く。
天井の明かりがゆらめき、空気がかすかに揺れる。
「大丈夫ですか?」
梨花の声が柔らかく、どこかに震えを含んでいた。
私は目を開け、彼女の横顔を見た。
髪を束ねたうなじに、細い汗の線が光っていた。
その瞬間、私たちは互いの正体を悟った。
確かめるように視線が絡み、言葉より先に沈黙が交わされた。
「……ご近所で、ですよね」
「……ええ。でも、今日は知らない人ってことで」
その言葉に、心臓が一拍遅れて跳ねた。
「知らない人」として過ごすことが、なぜこんなにも自由に感じられるのか。
背徳でも、裏切りでもない。
ただ、生きている実感を確かめたくなるような――
理性の輪郭を撫でる熱だけがそこにあった。
梨花の指先が、肩から鎖骨へ、そして胸の少し手前で止まる。
呼吸が触れるほどの距離で、時間が薄くのびる。
音も光も消えていく中で、
わずかな体温の変化と、肌を渡る空気の重さだけが世界をつくっていた。
その刹那、私は思った。
この瞬間のために、
これまでの退屈な日常があったのではないか、と。
梨花が微かに唇を動かした。
「何も言わないでください。……このままで」
その囁きは祈りのようで、
禁忌の匂いよりも、むしろ静かな救いを帯びていた。
【第3部】雨音の余韻──触れた記憶の中で
あの日から、私と梨花は言葉を交わさなかった。
ただ、週に数度、家の前の道で擦れ違う。
洗濯物の匂い、午後の光、遠くで鳴る子どもの声。
世界は何も変わらないように見えて、
その中心だけが、ゆっくりと熱を帯びていた。
ある雨の日、傘も差さずに立ち尽くしている梨花を見た。
声をかけるべきか迷い、けれど足は自然に彼女のほうへ向かっていた。
「濡れますよ」
私が差し出した傘を、梨花は見つめたまま動かない。
その瞳の奥に、あの夜の沈黙が息づいていた。
「……また、来ますか?」
彼女の言葉は小さく、けれど確かに雨よりも深く落ちた。
返事の代わりに、傘を彼女に渡した。
手が触れた瞬間、冷たい水滴の下で、体温がかすかに交わる。
その一瞬に、世界の音がすべて遠ざかっていった。
梨花は微笑んだ。
そして、少しだけ泣きそうな声で言った。
「誰にも、言わないでくださいね。……あの日のことも、今日のことも」
私は頷いた。
その頷きの中に、言葉にならない約束が溶けていった。
雨の匂いが濃くなり、空が灰色に沈む。
梨花は傘を開いて去っていく。
遠ざかる背中の輪郭が滲み、
その姿が見えなくなったあとも、
指先にはまだ、彼女の温度が残っていた。
【まとめ】記憶の温度──触れられない場所にあるもの
人は、触れた相手を忘れられない。
それは欲ではなく、たった一度の“理解”のようなものだ。
身体より先に心が触れてしまうとき、
その瞬間こそ、もっとも人間的で、もっとも危うい。
梨花の手の温度は、今も時折、
雨上がりの風に混じって甦る。
あれは罪ではなく、
孤独を抱えた二人の静かな祈りだったのかもしれない。
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