偶然の密着
朝のラッシュアワー。東京の通勤電車はいつも通り、息が詰まるほどの混雑だった。
私は美咲、36歳。結婚して10年、夫と小学生の息子と都内で暮らしている。日々平凡な生活の中で、何かが刺激的に揺さぶられることはほとんどなかった——あの朝までは。仕事はしていないが、週に数回、趣味の講座に通うためにこの時間帯の電車に乗る。
満員の車両に押し込まれ、身動きが取れなくなる。前の男性の背中に押し付けられるような状態で、苦笑しながら息を整える。
「すみません……。」
小さく呟くが、混雑の中では声も届かない。
次の駅で、さらに人が流れ込む。その瞬間、私の体はさらに押し込まれ、背後の男性とぴたりと密着した。
柔らかい吐息がすぐ近くに感じられた。
不意に、彼の体温が伝わる。
どこかで感じたことのある気配。
「……っ」
心臓が跳ねる。
ふと見上げると、反射的に彼の顔が視界に入る。
そこにいたのは——夫の職場の部下、圭吾だった。
気づかぬままの彼
圭吾は私を知らない。
彼は27歳。夫の会社の若手エリートで、夫が家でたまに話題にする優秀な部下だった。私は一度、夫の会社のパーティーで彼を遠目に見たことがあるだけ。
彼が私を知らないのは当然だった。
「大丈夫ですか?」
圭吾の低く落ち着いた声が耳元で響く。その声が妙に近く、電車の振動と共に私の鼓動を速めていく。
「……はい。」
混雑の波に押され、私は彼の胸にさらに近づいてしまう。
彼のスーツ越しに感じる筋肉の硬さと、男の匂い。
この距離で他人と触れ合うことは、日常では考えられない。けれど、それはまるで背徳の甘美な罠のように、私の理性をゆっくりとほぐしていった。
だけど。
「……っ」
思わず指先が震える。
夫の部下に、こんなにも近づいてしまっている。
揺れる意識
電車が揺れるたび、彼の体が僅かに動く。
そのたびに、私の心はざわめく。
「……すみません。」
彼の囁き。
「いえ……。」
言葉を返すのが精一杯だった。
距離が近すぎて、何もかもが過敏になってしまう。押し付けられる体の温かさ、時折感じる圭吾の呼吸。
その瞬間、私は気づいてしまった。
背中に感じる彼の熱。
そして——確かに私に向けられた、抗えないほどの感情の証。
混雑の中で、彼が反応しているのがわかる。
まるで、それを必死に隠そうとしているかのように。
彼の体が、確かに私に応えている。
気のせいではない——私の腰に押し当てられた圭吾の反応は、混雑のせいではなく、彼の無意識の証だった。
呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥で激しく響く。
まるで、この場にいるのは私と彼だけ。
「……っ」
唇を噛む。
この状況を冷静に考えようとするのに、理性がまるで追いつかない。
圭吾は何も言わず、何も気づいていないかのように振る舞っているけれど——それは明らかだった。
心臓が激しく打ち、熱が全身に広がる。
圭吾は何も知らず、ただ静かにその場にいるだけ。それなのに、私は彼の存在を強く感じずにはいられなかった。
体が、火照る。
理性は抗おうとするのに、本能がそれを許してくれない。
「こんなこと……だめなのに……。」
脳裏で何度も繰り返される言葉とは裏腹に、私の中の何かが彼を求めてしまいそうになる。
羞恥と興奮が入り混じる中、私は息を呑んだ。彼は何も知らない。
この状況が、どれほど私の中で狂おしい感情を生み出しているのか——彼は気づいていない。
「……っ」
こんな状況で、こんな感覚を知ることになるなんて。
理性と感情の境界が曖昧になっていく。
電車の振動に合わせて、意識が揺れ動く。
「……降りますか?」
圭吾の言葉に、私は反射的に頷いた。
次の駅で、私たちは同じようにホームに降りた。
彼が何も知らないまま、私は息を整える。この偶然が、単なる事故ではなく、抗えない運命の一片であるかのように感じていた。こんな偶然が、こんな刺激が、心の奥で何かを目覚めさせるとは——まだ、その時は気づいていなかった。
—この偶然は、果たして運命なのか。
家に帰り、溢れる記憶
帰宅し、熱の残る体を癒やそうと湯船に沈んだ。蒸気が肌を包み込み、ゆっくりと深呼吸するたびに、朝の出来事が鮮明に蘇る。湯気が肌を撫で、深く息をつくたびに、胸の奥にくすぶる熱が再び目を覚ます。
だけど、瞼を閉じると、今朝の出来事が鮮明に蘇る。
圭吾の低い声、私を包むような体温、そして……
思い出しただけで、心臓がまた早鐘を打つ。あの密着の感覚、熱を帯びた吐息、背後から伝わる圭吾の存在が、まるでまだそこにあるかのように感じる。
「……っ」
湯の中で自分の体に触れる。
それだけで、電車の中で圭吾に触れられた瞬間が鮮明に甦る。
密着した体の温もり、肌越しに感じた抑えきれない熱、彼の呼吸が耳元にかかるたびに全身を駆け抜けた痺れるような感覚——。あの瞬間、彼の抑えきれない想いが、確かに私へと伝わっていた。
脳裏に焼き付いた彼の熱が、まだ私の中に残っている気がする。
「ダメなのに……。」
抗おうとする理性とは裏腹に、心の奥底から湧き上がる衝動が私を締め付ける。朝の出来事が波のように押し寄せ、禁断の感覚が再び私を飲み込もうとしていた。
熱が高まり、理性の鎖が一つずつほどけていく。
肌に触れた湯の温もりが、まるで彼の手の残像のように感じる。
「……っ」
湯の中でわずかに身をよじる。
彼がすぐそばにいたあの瞬間の感覚が、身体の奥で鮮烈に蘇る。
圭吾が電車の中で私に向けていた抑えきれない感情——その証が、確かにあった。
その事実に気づいたとき、私はもう引き返せない場所にいた。
思考の隅で彼の熱を思い出すたび、体の奥から疼くものが込み上げる。
「どうしよう……。」
理性が囁くが、欲望はそれをかき消すように広がっていく。
背徳の快楽が、私を抗えない誘惑の深淵へと誘っていく。
甘美な罪が、理性の最後の欠片をも溶かし尽くす。
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