あなた、許して…。 男やもめのブルース7 葉山さゆり
久々に再会したのは、誠実で寡黙な社長・城島。かつての上司と部下としての距離感が、年月を経て少しずつ変わっていく。
湿った木の香りと共に蘇る記憶、胸の奥で揺らめく迷い。
家庭と過去、理性と感情のはざまで揺れる大人の心理を丁寧に描いた人間ドラマ。
静かな日常に潜む“心のざわめき”が、見終えた後も深く残る。
【第1部】雨の午後、木の匂いに濡れる──再会の予感が胸を焦がす
横浜・山手の坂道は、梅雨の湿気をまとっていた。
四十を少し過ぎた麻生紗季は、傘をたたみながら古い一軒家の前に立っていた。夫を亡くして三年。
雨の粒が軒を打つ音が、彼女の胸の奥を静かに叩く。
この家は、夫の両親が遺した場所だ。
庭の紫陽花は大きく花を広げているが、壁の漆喰は剥がれ、床板はところどころ軋んでいた。
手入れをする気力も、もう長く失われていた。
「……そろそろ、直さなきゃね」
独り言のように呟いた声に、微かに寂しさが混じる。
思い浮かんだのは、結婚前に勤めていた工務店の名だった。
社長の名前――城崎徹。
あの頃、現場監督として現場を走り回っていた彼の手は、いつも傷だらけだった。
けれど不思議と、彼の声だけは柔らかかった。
連絡を入れると、彼は変わらぬ低い声で笑った。
「紗季さんの家か。懐かしいな……俺に任せてくれる?」
電話の向こうのその響きが、胸の奥の古い傷をやさしく撫でたような気がした。
翌週、彼は現れた。
雨上がりの午後、作業服の胸元に泥の跡を残したまま、玄関先で帽子を取る。
「久しぶりだな」
その一言で、空気が変わった。
湿った木の匂いと、どこか甘い記憶が混ざり合う。
窓の外では蝉が鳴きはじめていた。
何かが、また動き出す――そんな予感だけが、確かにそこにあった。
【第2部】軋む床と胸の鼓動──触れられぬ距離で燃える午後
工務店の見積りが終わる頃には、陽射しが傾き始めていた。
紗季は湯を沸かし、城崎に茶を差し出した。
「変わらないですね、この家」
「いや、ずいぶん年を取った。木も、人も」
彼は笑ったが、その目の奥に沈んだ光があった。
二人の間に、沈黙が落ちた。
外では風が生垣を揺らしている。
その音に紛れて、心臓の鼓動が耳の内側で鳴った。
彼の指先が、図面をなぞる。
薄く日に焼けた皮膚、節ばった手。
その動きに、なぜか視線が吸い寄せられる。
「この壁も、ずいぶん痛んでるな」
「……ええ、私も、少し」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
城崎は顔を上げた。
目が合う。
瞬間、部屋の空気が変わる。
互いに何も言わない。
けれど、何かが確かに動いた。
あの日、結婚前に彼の声を聞くたび、胸がざわついた感覚が、
まるで時を巻き戻すように蘇ってくる。
彼が少し身を乗り出す。
わずかに開いた窓から風が入り、カーテンが頬を撫でた。
その風に混じって、木の香りと、彼のシャツに染みついた陽の匂いがした。
息が詰まりそうだった。
それでも目を逸らせない。
指先ひとつ動かせば、すべてが壊れるとわかっていても、
体の奥では、何かが確かに熱を帯びていた。
【第3部】沈黙の余熱──誰にも見せられないままの夜
その日、夕立が降った。
雨粒が軒を叩き、光を吸い込むように庭の紫陽花を濡らしていた。
城崎は工具箱を閉じ、ふと空を見上げた。
「今日は、もう上がりそうにないな」
その声が、かすかに掠れていた。
紗季はうなずき、玄関の灯りをともした。
光がふたりの影を壁に映す。
その距離は、もう手を伸ばせば届くほど近い。
「お茶、淹れますね」
そう言いながら台所へ向かう背中に、視線を感じた。
その視線の熱が、服の上からでも伝わる。
指先が、わずかに震えた。
湯気の上がる急須から立ちのぼる香り。
城崎の手が、茶碗を受け取るとき、ほんの一瞬、彼の指が紗季の手の甲に触れた。
電流のような熱が走る。
息を呑む音が、二人の間で重なった。
外の雨は、いっそう激しくなっていた。
屋根を叩く雨音が、まるで何かを覆い隠すように響く。
それでも、沈黙の中には言葉よりも確かなものがあった。
「……あの時、言えなかったんだ」
城崎の声が低く、雨に溶けた。
「お前が結婚するって聞いた時、本当は仕事を辞めようと思った」
紗季は顔を上げられなかった。
涙でも、熱でもない。
胸の奥が、ただ静かに疼いた。
ふたりの間を、風が通り抜けた。
薄く開いた窓の外、濡れた木々が光を吸い込んでいる。
遠くで雷が鳴った。
次の瞬間、城崎は立ち上がり、
何かを堪えるように目を閉じた。
その背中が、小さく震えていた。
紗季はただ、何も言わずに見つめていた。
触れたいのに、触れられない。
その距離にこそ、すべてがあった。
雨音が静まり、夜が深まっていく。
時計の針の音が、世界の中心で鳴っているようだった。
「……もう帰らないと」
「ええ」
たったそれだけの会話が、胸に深く沈んでいく。
ドアが閉まる音のあと、
紗季は椅子に腰を下ろし、
手のひらを見つめた。
そこには、彼の指の温もりがまだ残っていた。
それを確かめるように、ゆっくりと指を握りしめる。
外では、雨がやんでいた。
濡れたアスファルトが街灯を映し、
まるで新しい夜が、生まれたばかりのように光っていた。
まとめ──濡れた指先に残る記憶のかけら
夜が明ける頃、紗季は目を閉じていた。
あの雨の匂い、指先に残る温度、軋む床の音。
どれもが消えていくはずなのに、心の奥ではまだ静かに燃えていた。
彼と再会したことで、自分の中の何かが呼び覚まされたのだろう。
それは恋ではなく、若さでもない。
もっと深く、言葉にならない“生きている感覚”のようなものだった。
彼女は気づく。
渇きも痛みも、決して悪ではない。
それらは、まだ人を求め、感じ、息づこうとする心の証なのだと。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、
薄く乾いた床を金色に染めていく。
その光の中で、紗季はひとり微笑んだ。
──もう一度、何かを信じてみよう。
外では、昨日の雨の名残が瓦の上で輝いていた。
すべては過ぎ去ったようでいて、
心のどこかでまだ続いている。
記憶の中の指先が、
いまも静かに、彼の名をなぞっていた。




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