その日もまた、夜勤だった。
午後11時をまわると、院内はまるで時間が止まったように静まり返る。
蛍光灯の明滅だけが、私の足音にそっと寄り添っていた。
ナースステーションでカルテを確認する指先が、一瞬止まった。
「佐伯晴翔さん、312号室……」
声に出すことなく、心の内だけでそっと彼の名をなぞった。
カルテの写真よりも実際の彼はずっと、まっすぐで、危うくて、美しかった。
まだ春の余韻が残る4月、彼は練習中の接触プレーで足首を骨折し、入院してきた。
某有名大学のサッカー部。そのエースとして名を馳せる一年生。21歳。
きっと将来を約束された光の中にいる存在だった。
そして私は35歳。
看護師として12年目の春。
誰かに見つめられて胸が高鳴るなんて感情は、もうとうに終えたものだと思っていた。
「お名前、佐伯晴翔さんでお間違いないですか?」
初めての会話は、決まりきった業務の確認から始まった。
それでも、彼の目はカルテにはない情報を静かに私に伝えていた。
「はい、大丈夫です…」
その低く穏やかな声が、胸の奥に残響のように残った。
それは、いつか誰かに愛された記憶を呼び覚ますような、不思議な温度だった。
夜は病院の呼吸がゆっくりになる。
患者たちが眠りにつき、私たちだけが静かに世界を動かしている。
点滴の交換で彼の個室に入った時、イヤフォンを外した彼が、ふと私に視線を向けた。
「看護師さん、名前…教えてくれませんか?」
業務の一環として交わす会話のはずが、その一言で空気が変わった。
「……木崎です。木崎絵里」
答えた私の声は、少しだけ熱を帯びていたかもしれない。
彼は微笑み、吸い込まれるようなまなざしをこちらに向けた。
その目が、「女」としての私を見ていると気づいたのは、数日後の深夜のことだった。
その夜の廊下は、異様なほど静かだった。
照明を半分落としたナースステーションを離れ、私は点滴チェックを理由に、彼の部屋へと向かっていた。
“様子を見に行く”――それは私の中で、もう建前になりつつあった。
312号室。
ドアの前に立つと、ノックをする前に、なぜか手が止まった。
……微かに、何かの揺れが感じられた。
光でも音でもなく、気配。
身体の奥のどこかが、先に“気づいた”ような――そんな錯覚。
そっとドアを開ける。
カーテンの隙間から、灯りの届かぬベッドサイドを覗いた。
そして私は、息を飲んだ。
彼は、シーツの上で仰向けになり、上半身を軽く起こしていた。
白いTシャツは裾がめくれ、腹部から下――シーツの下で、彼の右手が忙しく動いているのが見えた。
額に汗をにじませ、噛みしめるように唇を閉じた横顔。
その表情は、どこか苦しげで、どこか切実で、
……そして、どうしようもなく美しかった。
逃げなければと思った。
でも、目が離せなかった。
彼の吐息は次第に荒くなり、肩が震え始める。
動きが速まり、時折、喉の奥から甘い呻きのような音が漏れた。
(だめ、こんなの…)
なのに私の身体は、膝の奥からじわじわと熱を帯び、下着がじっとりと湿っていくのを感じていた。
脈が早い。指先が痺れる。
白衣の下にある“私”が、静かに目を覚ましていた。
彼がふいに顔をこちらに向けた。
視線が合った瞬間――すべてが止まった。
「……絵里さん…?」
声にならない声が、空間を震わせる。
私は逃げるように背を向けかけた。けれど、その声に引き戻された。
「……見て、たんですか?」
静かだった。責めるでもなく、照れるでもない。
ただ、そこにあったのは、隠しようのない“本音”だった。
私は振り返り、部屋に一歩踏み入れた。
「……ごめんなさい。でも、目が……離せなかったの」
本当のことだった。
そしてもう、戻れないと悟った。
私はゆっくりと彼のそばに腰を下ろした。
彼の右手が止まり、代わりに私の手をそっと引き寄せた。
その手は、熱く濡れていた。
震えていて、でも確かに私を欲していた。
「絵里さん、触れてほしい。あなたの手で……」
彼の言葉に、躊躇いはなかった。
私もまた、その熱を受け止める準備が、いつの間にかできていた。
私は彼の指に自分の指を重ね、静かに導いた。
白衣の袖が腕を滑り落ち、彼の肌に触れるたび、全身がしびれるような快感に包まれていく。
下腹部に沈む湿り気。
私自身が、彼に触れながら、自分の身体の奥から溶けていくようだった。
彼の手が、今度は私の腿へと伸びてきた。
スカートの裾をめくり、ストッキング越しに太ももをなぞる。
「やわらかい…ずっと、触れたかった」
耳元で囁かれ、私は小さく声を漏らした。
羞恥と快感がないまぜになり、身体が小刻みに震えた。
そして――。
彼が私の下着の内側に指を滑り込ませた瞬間、
私は彼の首に腕をまわし、喉元に顔を埋めた。
「お願い……奥まで、来て」
その一言は、ずっと胸の奥にしまっていた叫びだった。
彼の身体が、私の上に覆いかぶさったとき、
病室の冷たい空気が、かすかに震えた。
白衣を滑るように脱ぎ落とし、彼の熱を全身で感じた。
若さに満ちた肌。なめらかで引き締まった筋肉の動き。
そのひとつひとつが、私の奥深くに沈んでいた時間を掘り起こしていく。
彼の唇が、私の鎖骨をなぞりながら、
まるで私の存在そのものを確かめるように、ゆっくりと、丁寧に触れてくる。
「絵里さん……怖いくらいに、綺麗です」
私は何も言えなかった。
言葉を返すには、感情があまりにも溢れていたから。
彼が私の脚をゆっくりとひらき、中心に顔を埋めたとき、
私の口からは、押し殺した声が洩れた。
恥ずかしさも、羞恥も、すべてを越えて。
私は、今この瞬間だけを生きていた。
舌の動きは最初はためらいがちだったけれど、
私の身体がそれを受け入れるたび、彼は自信を取り戻したかのように、深く、熱を伝えてきた。
指先が、私の奥へと伸びてくる。
とろけるような快感が、脊髄を駆け上がって、
頭の奥が真っ白になる。
私は彼の名を呼んだ。
彼の顔が上がり、その目が、私の目をまっすぐに見つめた。
「お願い……来て」
その言葉が扉になった。
彼の熱が、私の内へと、ゆっくりと沈んでいく。
初めは緊張で呼吸が乱れた。
でも、その動きが私の身体の深層に触れるたび、
私は彼の鼓動と自分の心拍がひとつになっていくように感じた。
「気持ちいい……? 苦しくない?」
「ううん、大丈夫……晴翔くんの全部、ちゃんと感じてる」
熱の律動。
腰の奥からせり上がる波のような快感。
全身の細胞が、呼び覚まされていくようだった。
私は彼の背中を抱きしめ、何度も、何度も重ねていく感覚の中で、
自分という存在が、“女”として再び目を覚ましていくのを感じていた。
そして、ある瞬間。
すべてが溢れた。
波のように、雷のように、
心と身体のすべてを突き抜けて、私は声にならない声をあげた。
扉を開けたとき、
彼女は彼の首に腕を回し、
彼はその細い背を、優しく、慣れた手つきで抱いていた。
カーテン越しに届く、ほのかな笑い声。
彼の喉の奥で震えるその音が、私の内側に刃のように突き刺さる。
一歩、足を踏み入れかけて、私は思わず引き返した。
何かを言えばよかった。名を呼べばよかった。
けれど、声は出なかった。
代わりに胸の奥に残ったのは、焼けるような――嫉妬だった。
彼に、彼女がいることは知っていた。
カルテの横に貼られた緊急連絡先のメモ。
そこに書かれていた女の名は、若く、未来を思わせる響きを持っていた。
“佐伯晴翔。21歳。某有名大学、サッカー部エース”
見舞いに現れるのは、制服の似合う透明感のある少女。
細く、頼りなげで、それでいて、確かに“彼の現在”だった。
でも彼は、私を見た。
35歳。人妻。白衣の下に渇いた心を隠した私を、“女”として。
あの夜。
彼女が病室を離れたわずか五分。
それは、私が“罪”という鍵を自ら開けた瞬間だった。
「……処置を始めるので、少しだけ席を外してもらえますか?」
彼女にそう伝え、笑顔で頭を下げた。
その声の奥にあったのは、すでに抑えきれない私自身。
扉が閉まる音が、合図のように部屋に響いた。
彼はベッドに座り、何も言わずに私を見ていた。
その目は言っていた。「いま、ここでしか、あなたを抱けない」と。
私は迷わなかった。
彼の胸に手を添え、その上に静かに跨った。
白衣は脱がない。
時間はない。音も立てられない。
パンティの脇を指でずらし、私の熱に彼を迎え入れる。
「……五分だけ」
囁いた声は、震えていた。
でも、身体は震えていなかった。
むしろ、溺れるように彼を求めていた。
彼の中に、私が静かに沈んでいく。
音はひとつもない。
けれど、脈拍・吐息・熱――そのすべてが快楽を奏でていた。
制服のスカートが彼の腿にかかり、肌が汗ばんで張りつく。
私は息を殺しながら、腰をゆっくりと揺らす。
彼の目は閉じていない。
私のすべてを見ている。
そして私は、**「見られながらほどけていく女」**になっていく。
白衣の下、私は人妻ではなかった。
年上でもなく、看護師でもない。
ただ、ひとりの女として――彼に欲されていた。
彼の息が荒くなる。
私の内側で、その熱が高まっていくのが分かる。
あと少し。
あと数秒。
罪の重さが、快楽を甘くする。
「……絵里さん」
彼がその名を呼んだ瞬間、
私は背中を反らし、小さく、何かを産み落とすように震えた。
彼の体がわずかに痙攣し、
私の内側に、彼が終わっていく。
時計も見ていないのに、わかった。
五分。
それは、ただの時間ではなかった。
“私という存在の輪郭を取り戻した、熱の証”だった。
私はゆっくりと彼から離れ、
制服の裾を下ろし、白衣の袖を整える。
唇を拭いて、呼吸を整え、ドアノブに手をかける。
「もうすぐ戻ってくるわ。……口、拭いておいて」
振り返ると、彼はまだ私を見ていた。
名を呼ぼうとして、やめた。
そして、私は扉を開けた。
あとがきのように――
五分間。
それは交わっただけの時間ではない。
それは、女としての私が、彼の中に確かに存在した証明だった。
けれど、その腕が数日後、別の誰かを抱いていたとき。
私のなかで、快楽よりも強い感情が立ち上がった。
嫉妬。
その燃えさしが、今も私の奥でくすぶり続けている。
あの五分だけは、確かに私のものだったと、
誰にも言えないまま――
私はいまも、唇の奥にその熱を思い出す。
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