【第一部】きっかけは、昼の白衣の男だった
「ただいま、戻りました」
エプロンのまま、髪をうしろでざっくり束ねた綾香が帰ってくる。
汗のにじむ生え際、白いブラウスの胸元には、うっすらと醤油の匂いが染みていた。
今思えば、あの日すでに、彼女の体に“別の男の時間”が染みつき始めていたのかもしれない。
群馬・高崎。結婚して17年目。
13歳になる息子の学費や、私の減額されたボーナスの補填のために、綾香が働き始めたのは、商店街のはずれにある「食処 もりかわ」だった。
昼は定食屋、夜は居酒屋という昔ながらの飲食店。厨房に立つのは無口な店主・森川と、その店を切り盛りしてきたという男ひとり。
「どんな人なの?」
何気なくそう聞いた夜、綾香は少しだけ考えて、
「……無口だけど、真面目な人」
と短く答えた。
そのときの横顔はどこか恥じらうように、けれど嬉しそうで、
私はただの“社会との接点を持った主婦”としての喜びだと、思い込んでいた。
でもその頃から──
夜の私への反応が、少しずつ薄くなっていった。
【第二部】布巾の下に隠した、火照り
6月のある日曜日、昼過ぎに急な土砂降りが降った。
「傘忘れたって言ってたな…」
私はなんとなく胸騒ぎがして、車を出した。
「もりかわ」はシャッターが閉まっていた。
にもかかわらず、軒下には、見慣れた綾香の青い自転車。
裏手の細い通路を抜けると、勝手口のガラス戸がほんの少しだけ開いていた。
覗き込んだ厨房は薄暗く、けれど油の照りが静かに光っていた。
その中心に──
裸の女の背中があった。
白く柔らかな肌に、布巾が一枚だけ落ちていた。
「……え?」
綾香の背中だった。
それは、私が知っている彼女の身体ではなかった。
少し痩せて、でも引き締まって、胸の下から尻にかけての曲線が、妙に艶やかに躍っている。
彼女は、厨房の調理台に身を預けていた。
その背後から、森川が押し倒すように密着していた。
音もなく腰を打ちつけるたび、綾香の太腿がピクッと震える。
声を押し殺しているのか、唇をきつく噛んだ彼女の横顔が、ほんの一瞬だけこちらに見えた。
その目は──
喜んでいた。
絶頂に達する寸前の女の眼差し。
私との夜では、もう何年も見ていなかった表情だった。
私は言葉もなく、ただその光景を見つめていた。
【第三部】夫であることの、意味が変わった夜
あの日から、何も問いただせないまま数ヶ月が過ぎた。
綾香は毎日、同じように店に通い、同じように帰ってきた。
食卓に味噌汁を並べ、息子の宿題を見て、寝室では背中を向けて眠る。
けれど私にはわかってしまう。
肌のきめ、指先の動き、香水の残り香──
そのすべてが、誰かの“指導”のもとで変わっていくのを。
ある夜、私はついに耐えきれず、尋ねた。
「……綾香、お前、俺のこと……まだ愛してるか?」
彼女は一瞬、目を伏せて、それからこう言った。
「あなたのことは、家族として大事。……でも、女としてはもう、戻れないと思う」
その言葉は、私の胸を鈍く叩いた。
けれどその夜、私は綾香に触れた。
久しぶりに、自分から求めた。
彼女は静かにそれを受け入れ、
けれど身体の奥では、別の男の形を思い出しているようだった。
それでも、私は構わなかった。
そういう形でしか、もう彼女を保てなかった。
汗ばむ肌の上を、残酷なほど繊細に彼女の吐息が踊る。
彼女は、明らかに“森川に抱かれた身体”で、私を包んだ。
その夜、私は初めて、妻を“誰かの女”として抱いた。
快感はあった。
でも、その後に訪れた静けさが、何より恐ろしかった。
静かな寝息を立てる妻の背中に手を伸ばしながら、
私はもう、自分が“夫”でいられないことを理解していた。
【余韻と再生】
それからしばらくして、綾香は店を辞めた。
理由は、店主が店を畳んで郷里に帰ると決めたからだという。
再び、夜の私に戻ってきた彼女は、少しだけ年を重ねた気がした。
私は彼女の身体を抱きながら、
彼女の奥に残った誰かの影に嫉妬し、それでも満たされていた。
人は、完全には戻れない。
けれど、不完全でも、繋がり続けることはできるのかもしれない。
そんな希望だけを、私は今も手放さずにいる。



コメント