第一章 夜のぬくもりは、誰よりも寮母が知っていた
就職して数週間。
まだ夏の名残が廊下の空気にまとわりつく頃、私は一人、地方の社員寮で暮らし始めた。
関西の外れにある古びた二階建ての木造建築。
壁は薄く、扇風機の羽音が天井に響き、夜になると虫の声とともに、見えない孤独が部屋にしみ込んでくる。コンクリートの街から離れたせいか、ここでは時間がゆっくり流れていた。
寮の一階には、年季の入った食堂と事務室。そしてその奥に寮母室。
住み込みの寮母――〈麻子さん〉は、40歳くらい。しっとりとした黒髪を肩で切りそろえ、薄化粧の奥に年齢を感じさせない透明感のある肌を持っていた。
初めて挨拶を交わしたときのことは、今も忘れられない。
白いシャツから伸びる首筋。
腕まくりをしたシャツの袖口から覗く、細い手首。
爪先まで整えられたその所作すべてが、私の中の“男”を静かに目覚めさせた。
「若い子ばっかりで、私は肩身が狭いわ」
そう笑う声は、少しかすれていて、眠る前のラジオみたいに優しく響いていた。
その夜、他の寮生たちは皆、帰省で不在だった。
夏休み前の静けさ。寮には、私と麻子さんだけ。
「ひとりやと、なんや寂しいなぁ……一緒にテレビでも見ぃへん?」
夕食を終えた私は、誘われるまま食堂に残り、麻子さんと二人でテレビの前に座った。
古いクッションチェアに腰を下ろす彼女のスカートの隙間から、柔らかそうな生足が覗いた。色白で、きめ細かくて、妙に艶めかしい。
会話はたわいもない話から、やがて私のことに移っていった。
「彼女、おらへんの?……え、今まで誰とも?」
麻子さんの眉が少し動いた。
私の頬が火照るのを見て、声をひそめて笑った。
「……えらい純情なんやなあ。童貞……やろ?」
喉の奥で何かがつっかえた。
言葉にできず目を逸らすと、彼女は少し身を乗り出し、私の頬に視線を滑らせた。
「可愛らしいなぁ……あかん、そんな目で見たら……」
そう言いながら、彼女は足を組み替えた。
ふわりとしたスカートの下、白く太い太腿が露わになる。
その一瞬、私は明確に、自分の中の欲望が音を立てて目を覚ましたのを感じた。
パンツの中に熱が集まり、息を呑んだ瞬間、彼女の目が私のそこに落ちた。
そして、目が合う。
「……わかるよ。うち、こう見えて、男の目には敏感やから」
スッと立ち上がった麻子さんは、私の隣の椅子に移り、腰を下ろした。
その距離は、たった数センチ。ふわりとした石鹸の香りが、私の鼻腔を満たした。
「今夜、娘もおらんのよ。合宿でね」
静かに囁くその声に、全身が震えた。
緊張で喉が乾き、何かを言おうとしても言葉が出てこなかった。
「うち、音楽好きやねん。……CD、聴かせて?」
その提案が意味することを、理性ではなく本能が理解していた。
気がつくと私は立ち上がり、彼女を自分の部屋へと案内していた――。
第二章 触れてはいけない温度に、私は溶けていった
寮の廊下はひんやりとしていて、麻子さんの足音が、静けさに溶けていく。
私のすぐ後ろを歩いてくるその気配に、心臓の鼓動がついていけない。
このまま部屋に入ったら、もう、もとには戻れない――そんな予感だけが、やけに鮮明だった。
六畳一間の部屋。畳の匂いと、風鈴の音。
ベッドの上には、朝たたんだままのシャツ。
そこに、ひとりの成熟した女が入ってくるだけで、空間の密度が変わる。
「落ち着いた部屋やね。あんたらしいわ」
彼女はそう言って、私のベッドに腰を下ろした。
照明は落とし、棚のCDプレイヤーを再生する。流れたのは、静かな女性ボーカル。
夜の湿気を含んだ歌声が、狭い部屋をやわらかく包み込む。
麻子さんは何も言わず、じっと私を見ていた。
脚を揃えて、指を膝に組んで。目元だけが、まるで何かを待っているようだった。
私は彼女の隣に、腰を下ろした。
このとき、肌と肌は触れていなかった。でも、熱だけは確かに伝わっていた。
沈黙――
それは、怖いほど心地よいものだった。
たった今、見えない境界線を越えていくその前の、無音の予感。
CDを入れ替えようと立ち上がろうとした、その瞬間。
「……ちょっと」
麻子さんが、私の手首をそっと握った。
その温もりは、驚くほどやわらかくて、女性特有のぬめるような熱を帯びていた。
「ほんまに……何も知らんの?」
私は頷くことも、否定することもできなかった。
ただ、彼女の手に引かれるように、静かに膝をついた。
目の前に、彼女の胸元があった。
白い肌と、透けるようなキャミソールのライン。
うっすらと浮かぶ曲線に、私は目を奪われたまま、動けなくなった。
「見てええよ。……初めてなんやろ?」
囁くような声。
私は震える手で、彼女の服の裾に指をかけた。
一枚ずつ、時間をかけて外していく。
キャミソールを脱いだあとの、細い肩。
ブラのホックが外れ、こぼれ出すように現れた、柔らかな膨らみと、桜のように淡い先端。
私は、まるで聖域に触れるように、そっと唇を近づけた。
彼女は小さく息を漏らし、私の頭を抱くように指をからめた。
「好きにしてええよ。……ゆっくりで、ええから」
彼女の手が、私のシャツを脱がせ、ベルトに指をかける。
布越しに触れられた瞬間、熱が爆発するように脈打った。
麻子さんは私を見つめながら、そのまま指を奥へと這わせた。
「可愛いな……ほんまに」
私は羞恥と快感のはざまで、思考を手放した。
彼女の手に導かれ、ベッドの上で向かい合う。
その身体は、想像以上に柔らかくて、香り立つように甘かった。
足が絡まり、腰が触れ合い、肌と肌が密着する。
麻子さんの指が私の背中を這い、耳元で息をかけるたび、身体の奥がきしんだ。
「……入れてみよか」
そう言った声に、私はただ頷いた。
避妊なんて頭になかった。
ただ、求められたことに胸が満たされて、私は彼女の中に、ゆっくりと沈んでいった。
最初の瞬間、熱と締めつけに驚き、思わず声が漏れた。
麻子さんも眉を寄せながら、私の首筋に唇を押し当てた。
「大丈夫、慣れるよ……もっと、奥まで」
音を立てながら、身体が重なっていく。
彼女の吐息と、私の荒い息が、部屋の湿度を濃くしていった。
はじめての感覚。
生身のまま、女と一つになるということ。
私は何も知らなかったけれど、ただ夢中で彼女を求めた。
彼女もまた、私の幼さを愛おしむように、何度も腰を絡めてきた。
終わりが分からなかった。
何度果てても、また彼女の中に戻っていきたかった。
深夜、息が落ち着いたあと。
裸のまま、彼女は私の胸に頬をあずけていた。
「……ほんまに、あかんことしたな、うち」
そう呟く声が、少しだけ震えていた。
でも私は何も言えなかった。ただ、彼女の髪を撫でて、背中にそっと手を添えた。
私の中で、何かが変わり始めていた。
ただ欲しかっただけじゃない。触れた熱が、身体の奥に記憶として焼きついていった。
第三章 愛してはいけない人を、身体が覚えていた
あの夜を境に、麻子さんはときどき、私の部屋に来るようになった。
誰にも気づかれないように、足音を消して。
誰にも見られないように、目を合わせずに。
いつも同じ、夜の八時を少し過ぎた頃。
コン、コン――と小さなノック。
その音を聞くだけで、私は身体の芯から熱くなった。
「こんばんは。……誰にも、見られてないよね?」
彼女は笑いながら入ってきて、すぐに私の胸に顔を埋めた。
抱き寄せた背中は少しだけ汗ばんでいて、夏の終わりを告げるように、しっとりと熱を帯びていた。
「さっき、娘と電話してたんよ。……また、合宿伸びたんやって」
私の肩に寄りかかる声が、どこか寂しそうだった。
私は言葉を探すより先に、そっと彼女の唇を塞いだ。
彼女は抵抗せずに、すぐに舌を絡めてきた。
キスを交わしながら、彼女のシャツのボタンを外していく。
もう慣れたはずの手順なのに、指がかすかに震えていた。
それを悟られたくなくて、私は唇の奥深くまで貪った。
ベッドに倒れ込むと、麻子さんの身体が音を立てて沈む。
ランプの明かりに照らされて、乳白色の肌が、波のようにうねる。
「……ほんまに、こんなこと、続けてええんやろか……」
彼女はそう言いながらも、私の首筋にキスを落とし、ゆっくりと脚を絡めてきた。
その細くなめらかな脚が、私の腰を締めつけるように巻きつくと、理性はもう意味をなさなかった。
私は彼女の中に、何度も沈んでいった。
生身のまま、ぬるりと包まれて、脈打つ感覚に全身を委ねた。
麻子さんの指が私の背を引っかき、腰を引き寄せ、目を閉じて甘く喘ぐ。
「ん……いい、もっと、深く……来て……」
彼女の声が、喉の奥から震えるたび、私は彼女の奥に向かって果てていった。
そのたびに、彼女は小さく身体を震わせ、爪先まで快楽に染まっていった。
いつか、それが当たり前になっていた。
欲しくて、抱いて、果てて、眠る。
まるで呼吸のように、罪のように。
――でも、ある夜。
行為のあと、麻子さんがぽつりとつぶやいた。
「……ほんまに、終わりにせなあかんね」
私は、すぐには意味を理解できなかった。
隣で裸のまま丸くなった彼女が、背を向けたまま肩を震わせていた。
「娘がね、最近よう聞いてくるんよ。“寮に好きな人できたん?”って。冗談みたいやけど……どきっとした」
静かな言葉に、胸の奥がしんと痛んだ。
心では分かっていた。この関係が、いつか終わることを。
でも、それを告げられると、言葉にならない何かが喉を締めつけた。
「……俺、麻子さんのこと、好きですよ」
背中にそっと触れた私の手に、彼女の体温がしみ込んできた。
その手を、彼女はゆっくりと握り返した。
「……ありがとう。あんたの最初が、うちでよかった」
キスよりも深く、愛よりも切ない、その一言。
私はただ、彼女の髪を撫でて、頬に口づけた。
その夜が、最後だった。
季節が巡り、私はその寮を出た。
街に出て、新しい生活を始めても、あの夜の熱だけは、ずっと私の中に残っていた。
もう会うことはない。
でも、夜になると、ときどき思い出す。
風が揺らしたカーテンの向こう。
寮母室から差し込むやわらかな灯り。
そして、そっと鳴った、あのノックの音。
あれは、誰にも話せない、私だけの秘密。
でも確かに、あの夏、私はひとりの女と、真っ直ぐに愛し合った。



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