第一章:ひとり旅の午後、私は見知らぬ男と目を合わせた
その日、私は指宿の駅を降りた瞬間から、胸の奥に張り詰めていた何かがふっと緩むのを感じた。
湿った潮の香りと、身体に絡みつくような南の風。東京の乾いた空気とはまるで違う。時間が少し軟らかくなったような、そんな感覚だった。
33歳。私は今、人妻であり、広告代理店の管理職として忙しい日々を送っている。
都心のタワーマンションに暮らし、夫とは表面上は円満。けれど、互いに忙しさを理由に、肌が触れ合う夜はここ1年、指折り数えられるほどだった。
そうして気づかないふりをしながら、私は少しずつ“女”としての感覚を失っていった。
その埋まらない空白を抱えたまま、ひとりでこの土地に来た。
理由を問われたらうまく答えられない。けれど本当は、誰かに見つけられたかったのかもしれない――女としての、私を。
午後3時すぎ。
駅前の足湯カフェ。テラスの木陰にある長椅子に腰掛け、私はローズマリーの香りが漂うアイスハーブティーをゆっくりと喉に流し込んでいた。
脚をほどよく開き、膝から下を湯に沈める。薄手のリネンシャツの下には、白のブラトップ。肋骨の浮きがかすかに透けるほど、柔らかく湿った風が素肌を撫でていた。
そして、彼はいた。
斜め向かいのベンチ。Tシャツの袖から覗く腕の筋、ラフなジーンズに無造作な黒髪。まるで周囲の時間だけが、彼を中心に止まっているような、独特の気配を纏っていた。
視線が重なった瞬間、私は声を失った。
彼の瞳はまるで、陽炎のように揺らぎながらも真っ直ぐに射抜いてくる。その深さの奥に、言葉ではない“感応”のようなものが、じわりと染み込んでくるようだった。
私が目をそらすまで、3秒。
その3秒間で、すでに心のどこかが濡れていた。
「観光ですか?」
思わず口をついて出た声が、自分のものとは思えなかった。
それは“話しかけた”というより、“吸い寄せられた”という感覚だった。
「……ええ。偶然、です」
彼は穏やかに笑い、視線を私の脚元へと滑らせた。
足湯で濡れた私の脚。太腿まで上がったスカートの裾。リネン越しに浮かぶ、胸のライン。
私は気づいていた。
彼が、私を“女”として見ていることに。
そして、私自身がそれを、拒んでいないどころか、悦んでいることにも。
喉の奥が乾く。
でもそれは、渇きというより、身体の奥に湧き上がる欲の熱だった。
そのとき、私は悟った。
この旅が、単なる“気晴らし”では終わらないということを。
そして──
私は自分から言った。
「よかったら……夜、飲みませんか?」
第二章:波音の中で、私は“女”としてほどけていく
夜の海は、まるで深く呼吸しているようだった。
ホテルのラウンジから見える水面には、月が静かに揺れていた。
グラスの縁に唇を滑らせながら、私は彼の指の動きを見つめていた。ワイングラスを持つその手は、何度もシャッターを切ってきたカメラマンのように、繊細で無駄がなかった。
「人妻と飲む夜なんて、初めてです」
彼は、冗談めかした口調でそう言いながらも、目はどこか真剣だった。
まるで、私の奥を見透かすように。
私はグラスを軽く傾けて、赤ワインを舌に乗せた。
重く、深い味。まるで今の私の心みたいだった。
「“人妻”って、そんなに特別?」
問いかけると、彼は少しだけ唇の端を持ち上げた。
「うん。なんていうか……触れたら、何かが変わってしまいそうで」
その言葉に、胸の奥で何かが静かにひび割れた。
“変わってしまいたい”と、どこかでずっと願っていた私の心が、呼び起こされたように。
気づけば、私の声が唇を伝っていた。
「……部屋、来る?」
彼は何も言わずに立ち上がり、私のグラスに最後の一滴を注いだ。
*
部屋の鍵を閉めたとき、心の奥で、何かが震えた。
罪と予感。羞恥と期待。
重なり合う感情の温度に、息がうまくできなかった。
「シャワー、先に……浴びてくるね」
言葉を交わす間もなく、バスルームの扉を閉める。
服を脱ぐ指先が、かすかに震えていた。
鏡の中、湯気で曇り始めたガラス越しに、自分の裸を見つめる。
――この身体を、誰かが欲しがってくれるだろうか。
夫との関係の中で、何度も「満たされたふり」をしてきた私。
けれど今は、そんな演技も脱ぎ捨ててしまいたかった。
シャワーの水音が、心のざわめきをかき消してくれる。
そして──
バスタオル一枚を巻いて部屋に戻ると、彼はベッドの端に腰を下ろしていた。
あのときと同じ眼差しで、私を見ていた。
でも今は、私の中に何かが宿っている。
“覚悟”にも似た熱。
私はゆっくりと彼の前まで歩き、囁いた。
「……触れて」
その瞬間、彼の指がバスタオルの端にかすかに触れた。
するりと滑り落ちた布。
床に落ちる音すら、なまめかしい。
彼の視線が、私の裸を一枚ずつなぞっていく。
胸のふくらみ、腰のライン、太腿の内側。
まるで筆で描かれるように、静かに、丁寧に。
そして、鎖骨へ指先が触れた。
そこからゆっくりと、胸へ、腹部へ、そして脚の付け根へ。
その軌跡は、まるで私という存在を“女”として読み解いていくようだった。
唇が重なる。
濡れた舌が私の中に忍び込むと、意識が霞み、足先まで痺れるような感覚が走った。
ベッドへと倒れ込む。
彼の手が、脚をやさしく開く。
そして、唇が私の花ひらく場所へ──
舌が触れた瞬間、喉の奥で甘い声が漏れた。
恥ずかしさよりも、歓びの方が先に来た。
波打つような舌の動き。敏感な粒を探し、甘く吸い上げるたびに、私は反射的に腰を跳ね上げていた。
快楽に揺られる身体。
胸は硬く張り、脈を打っている。
私は、彼の髪に手を伸ばし、無言で訴えた。
「……もう、入れて」
彼は私を見上げ、微笑みながら身を起こす。
そして、熱を帯びたものが、私の濡れた奥にゆっくりと押し当てられた。
ゆっくりと──
奥まで、ゆっくりと。
私は彼を受け入れながら、何かを喪い、そして得た気がした。
“人妻”という肩書きが、シーツの下でほどけていく。
体位は、流れるように変化していった。
彼の上に跨がると、私は自ら腰を動かした。
内側が擦れ合い、熱を帯びる。
目を閉じると、鼓動が内壁に響いていた。
そして後ろから、彼が私の腰を抱き上げてくる。
後背位。
深く突かれるたび、声を抑えきれずに上がる。
「……もっと、深く」
言葉が漏れた瞬間、彼の動きがさらに熱を帯びた。
打ちつけられる音、湿った水音、汗ばむ肌の擦れ合い。
五感すべてが、今ここでしか味わえない快楽に塗り替えられていく。
身体の奥で、何かが震え始めた。
とろけて、崩れて、流れていく。
名前を呼んだ。
彼の名前を、何度も。
そして──
快楽の波が、深く、激しく、私を飲み込んでいった。
第三章:月の引力が去ったあと、私は濡れたまま目を覚ました
朝──まだ、光になりきれない薄明の時間。
天井の隅にあるダウンライトが、淡くシーツのしわを照らしていた。
私は、濡れたまま眠っていた。
身体の奥、太腿の内側、そして胸の先端には、確かに“男に愛された痕跡”が、熱として残っていた。
彼の腕の中、私は横たわっていた。
額が彼の喉元に寄せられ、肌と肌とが微かに汗を吸い合う。
夜のあいだに何度、絶頂の波に攫われたのか覚えていない。
けれどその一回ごとに、私は確実に何かを脱ぎ捨て、別の何かを受け入れていた。
「まだ、濡れてるね……」
耳元で囁かれた彼の声は、朝というより“夜の名残”のように低く、私の下腹にじんと響いた。
すでに何度も重ねたはずなのに──私の身体は、まだ彼を欲していた。
自分でも信じられないくらい、素直に、濡れていた。
彼の指が、太腿をなぞりながら、ゆっくりと中心に触れる。
恥ずかしいほど柔らかく、熱を持って、蜜のように潤んでいる場所。
そこに、音を立てないように指先が沈み込んだ瞬間、私は反射的に脚を震わせた。
「……やだ、また」
そう呟いた私の声は、抗う気配さえ持っていなかった。
朝の光の中で、身体はより敏感に、裸のまま心に直結していた。
唇が、胸の先をそっと咥える。
舌が円を描くたび、背筋に熱が這い、再び身体が求めてしまう。
愛撫というよりも“祈り”のように静かで、けれど、その舌先はあまりにも官能的だった。
そして、彼の身体が重なってくる。
入り口で、確かめるようにすり合わせたあと、ゆっくりと、じっくりと、私の奥に満ちていった。
朝の静寂の中で交わる身体は、夜のそれとは違う。
焦燥も、高鳴りも越えて──
ただ深く、深く、内側を埋め尽くすように。
水の底に沈んでいくような快楽の静けさに、私は何も言葉を出せなかった。
正常位、脚を絡ませる。
目と目が合い、彼の熱が奥へ届くたび、私の目尻から、熱い涙がひと粒だけこぼれた。
「どうして、泣くの?」
囁くように訊かれたけれど、私自身もわからなかった。
たぶん、すべてが満たされたとき、人はこんなふうに涙をこぼすのかもしれない。
彼は、私の涙を唇で吸い取りながら、もう一度ゆっくりと突き上げてきた。
奥に響いた感覚に、私の全身が波のようにふるえた。
そのあと、私は彼の上にまたがった。
胸を垂らすように近づけ、唇を交わしながら、ゆっくりと腰を揺らす。
騎乗位。
それは“奪われる”のではなく、“自ら受け入れる”交わり。
内壁に彼を感じながら、私は自分で動くことで、官能のコントロールを手にしていた。
自分の指が彼の胸に触れ、爪が肌に引っかかる。
そこに快感が混じる。
ふたりの身体が、快楽と疼きの輪でつながれていく。
そして最後──彼に後ろから抱かれ、シーツの上で丸められるような姿勢。
彼の体温が背中に密着して、腕が私の胸をすくい上げる。
後背位。
一番深く、そして一番、女を“感じてしまう”体位。
奥へ──
もっと奥へ──
やわらかく、どこまでも湿った音が、朝の部屋に広がっていく。
私は、また彼の名前を呼びながら、全身で“悦びのしぶき”を受け入れていた。
そして──
絶頂の瞬間、私はすべてを溶かしていた。
羞恥も、日常も、名前さえも。
ただひとつ、女であるという“生”の感覚だけが残っていた。
*
朝、再びベッドで目を覚ましたとき、彼の姿はなかった。
けれど、シーツの温もりは残っていた。
テーブルの上には、一枚の小さなメモ。
「忘れられない朝を、ありがとう。拓海」
私はメモをそっと折りたたみ、指でなぞった。
涙は出なかった。
でも、心の奥で何かが確かに変わっていた。
この旅で、私は浮気をした。
けれどそれは、誰かを裏切ったのではない。
“女である自分”を、もう一度信じたかっただけ。
朝の光は、昨日よりもやさしかった。




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