エアコンの微かな音と、アロマの香りに包まれた静かな午後。
私はいつものように、清潔な白のユニフォームに袖を通し、軽く髪を結い直す。
このサロンに勤め始めて、まだ半年。
“健全なメンズエステ”という言葉を信じて飛び込んだ世界だったけれど、ここには“言葉にしにくい空気”が、確かに存在していた。
「初めてですか?……あ、ありがとうございます。緊張なさらずに、ただゆっくりしていただければ」
目の前に立つのは、40代半ばくらいの男性。
スーツの上からでも分かるようながっしりとした体つき、けれど目元には優しさが滲んでいた。
「……手、冷えてないですか?」
ベッドにうつ伏せになった彼の背に、私はオイルを垂らして、ゆっくりと手のひらを滑らせる。
掌と掌で語るように、私たちは言葉少なに時間を共有していた。
しばらくして、彼がふと声を漏らした。
「君の手、……何か、昔のことを思い出すな」
「え?」
「学生の頃、初めて女性に触れられた時のことを……不意に、だよ」
私は少し笑ってしまった。
この施術台の上では、誰もが少し素直になる。
でも、不思議だった。
この瞬間、私の中にも“忘れていた記憶”が、じんわりと浮かび上がってきたのだ。
「……私も、電車で……何度か、触られたことがあるんです」
自分でもなぜ話したのか分からなかった。
けれど、彼の背中に指を滑らせながら、私はその記憶を丁寧に語っていた。
「怖いというより、……恥ずかしい気持ちの方が勝って。逃げ出したくても身体が動かなくて、なのに……身体が熱くなってて……」
一瞬、彼の呼吸が止まったように感じた。
「……感じたの?」
低く、抑えた声。
背中越しでもわかるほど、彼の肌がざわついていた。
私の指先が、無意識に、彼の肩をなぞる速度を変える。
「……わからない。嫌だったのに、忘れられないの」
言葉にした途端、胸の奥に沈めていた“なにか”が、泡のように浮かび上がってきた。
沈黙が、空気の粒を震わせるように降りてきた。
私の言葉に、彼の背中の筋肉が小さく反応したのがわかる。
うつ伏せになっていた彼が、ゆっくりと顔を横に向け、私の方を見た。
「……あの時、本当はどうしてほしかったの?」
その問いに、私は返す言葉を失った。
なのに、指先は彼の首筋をすくいあげるように滑っていく。
彼の体温が、私の手のひらに染み込み、心までじわじわと熱を帯びていった。
彼がゆっくりと起き上がる。
バスタオルが腰のあたりで緩く結ばれたまま、私と向かい合う。
「……触れても、いい?」
低く、震えるようなその声に、私は頷いていた。
許可を与えたのではない。
ただ、身体のどこかが、もう止まらなくなっていただけだった。
彼の指が、私の頬に触れる。
熱を孕んだその手のひらが、私の顎を包み込み、そっと唇を重ねてきた。
やわらかな唇。
思いのほか、優しいキスだった。
私は、思わずそのまま目を閉じてしまう。
その隙間から、何かが崩れていく音がした。
唇が離れるころには、胸元の内側に広がった熱が、指先まで波のように伝わっていた。
彼の手が、私の腰をそっと撫でるように包み込み、そのまま太ももへと滑っていく。
ユニフォーム越しでもわかるほどに、手のひらは熱く、確かだった。
私は、小さく、息を呑んだ。
「……やっぱり、濡れてる」
耳元で囁かれたその一言に、背筋がぞくりとした。
羞恥という感情が一瞬よぎったはずなのに、内側ではそれを歓迎するような疼きがあった。
彼の指先が、布の上からゆっくりと辿ってくる。
下着のラインをなぞるたび、息が詰まり、声が震える。
私は目を逸らした。
けれど身体は、拒むどころか、むしろ彼の熱を吸い寄せるように反応してしまっていた。
「止めようと思えば、止められるよ。……でも、本当は?」
その問いに、私はもう、答える必要もなかった。
彼の掌が真実を読んでいた。
肌の奥で滲んだ潤み、脈打つ鼓動、途切れがちな呼吸の速度――すべてが。
私はベッドの端に腰をかけ、彼に引き寄せられるまま、身体を預けた。
首筋に落ちるキスが、背徳の印のように熱を残す。
その手が胸をなぞり、腰に添い、そして脚の付け根を確かめるようにすくいあげてくる。
触れられるたび、私の身体は音を立てずに開かれていく。
まるで、過去の傷にやさしく蓋をするような仕草だった。
けれど、その奥にある私の“女”としての本性までも、彼は静かに目覚めさせていた。
「……こんなふうに求められるの、久しぶり」
自分の声とは思えないほど甘く、濡れていた。
そしてその言葉が、彼の奥に火を点けたのがわかった。
彼の指が、柔らかく、しかし確かなリズムで奥を撫で始める。
私はもう、逃げなかった。
震える腰を彼に委ね、心までまるごと、熱にほどかれていく。
波がひとつ、ふたつ――
押し寄せるたびに、私は名前のない快楽の渦にのまれていった。
そして、ひときわ深く突き上げられた瞬間、身体が内側からほどけて、音のない余韻の中に落ちていった。




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