あの夜のことを、私は一生忘れない。
産後半年、慣れない育児の合間にふと見た夫のスマートフォン。無造作に開かれたままの画面に映っていたのは、私の知らない女と交わす、軽やかで艶めかしい言葉の数々だった。
38歳の取引先の奥様――信じたくない情報を確かめるまでもなく、夫の瞳がすべてを語っていた。
「もう終わったことだよ」と彼は言った。でも、終わっていなかった。
その土曜の夜、インターホン越しに聞こえた男の声。低く、震えるほどに怒気を含んだ声で、名乗ったのはその女の夫――村瀬という名の、鋭い目をした男だった。
玄関を開けた瞬間、彼の目が私の目を刺すように見た。「……奥さん、気の毒だね。こんな裏切り、許せるかい?」
言葉を返せなかった。私が何をしたというの。泣きそうな気持ちを必死で堪えて、ただ子どもだけを守ろうと、頭を下げ続けた。
翌日、乳児を抱いたまま私は村瀬家を訪ねた。奥さんと夫、そしてその夫婦の崩れた絆の中に、自分も巻き込まれている事実が、吐き気がするほど苦しかった。
「……会社に言えば旦那は終わりだよ」
村瀬さんは静かに、けれど揺るぎなくそう言った。
「でも、俺もあんたの旦那と同じように、楽しませてもらえたら……それでチャラにするって話もある」
喉の奥で何かがせり上がる。冗談で済ませるには、彼の瞳が真剣すぎた。
断った。何度も何度も、断った。
けれど彼は引かなかった。日を追うごとに私の精神はすり減り、夫と交わす会話すらまともにできなくなった。
「行きたくなんかないよ」
「でも行くんだろ?」
夫はそう言って、私の目を見ようとしなかった。
そして迎えた、約束の日。
生まれて初めて、保育園でもないのに子どもを預けた。胸の奥が痛かった。体中の力が抜けて、ハンドルを握る手が震えていた。
ホテルの前に車が停まり、村瀬さんがドアを開けた。
「来たんだな」
「……早く終わらせて」
そう言った私の声は、他人のものみたいに乾いていた。
チェックインを済ませて通された部屋は、ビジネスホテルにしては妙に落ち着いた雰囲気だった。ソファに沈み込んだ私の耳に、バスルームのお湯の音が聞こえはじめる。
「……お茶くらい、いれてくれるか」
無理やり笑っているようなその声に、私はキッチンのポットへ手を伸ばす。指が、震えていた。
やがて背後で服を脱ぐ音がした。振り返ることはできなかった。
「脱げよ」
「……自分で、やります」
彼は、少し笑った。「自分で、か。いいね。覚悟があるってことか」
覚悟なんて、なかった。あるのは恐怖と、混乱と、怒りだけ。
でも、服を脱いだ私の身体を見た村瀬さんは、不意にその目を和らげた。
「……母乳、か?」
胸元に滲むパッドの跡を見て、彼はそう呟いた。
「そうだよ。私、母親なんです」
言葉は、責めるようにして出た。でもその響きは、どこか寂しかった。
「だったらなおさら、もらう権利があるな」
村瀬さんの言葉に、私は返す気力もなくなった。指が私の肩に触れる。押されるでもなく、なぞるように。男の手の温度なんて、久しぶりだった。
首筋をなぞられた瞬間、体がびくんと震えた。
「……嫌、やめてください」
「奥さんの旦那も、やめなかったんだろ」
その一言に、言葉が詰まった。
夫の裏切り、村瀬さんの怒り、自分の身体の反応――すべてが交錯して、私の心の中でバランスを崩しはじめていた。
「俺が悪者でいい。奥さんも……今日だけは、自分を捨てろよ」
その言葉が、どうしてか、静かに心の奥に染み込んでいった。
身体が触れられるたび、どこかで蓋をしていた感覚が少しずつ解き放たれていくようだった。あんなに拒んでいたのに、私は何も言えなくなっていた。
そして、ベッドに背中が沈んだ瞬間――
自分の中で何かが、音を立てて崩れた気がした。
「やめて」と、どれだけ口にしても――
その言葉が本気でないことを、誰よりも先に気づいていたのは、私自身だったのかもしれない。
村瀬さんの指先が、ゆっくりと私の脚の内側をなぞる。そこは、もう既に熱を帯びていた。触れられただけで、呼吸が浅くなるのがわかった。怖い。けれど、もっと怖いのは――私の身体が、確かに応えているという事実だった。
「奥さん、ここ……もう、こんなになってる」
呟かれるその声は、夫のものとは違う重さを持っていた。厳しくも、どこか私の芯を見透かしているような声音。
「あれだけ怒ってたのに……なんで……」
震える声でそうつぶやくと、彼は少し間を置いて、こう返した。
「怒りと快楽は、同じ場所にあるのかもしれないな」
わからなかった。だけどその言葉が、どこか腑に落ちるような感覚もあった。
熱を持つ奥に、彼の指が沈んでいく。入るたびに、体の奥がきゅっと縮んだ。誰にも触れられていなかった部分が、彼の体温に溶けていく。
乳首にふれた彼の舌が、やさしく弧を描く。出産以来、赤ん坊のためだけだった場所が、いまはまったく別の目的で濡れていた。
「もう……いや……」
「じゃあ、抜くか?」
ふいに動きが止まり、私は慌てて脚をすくめた。そんな自分の動きに、ぞっとした。
「……違う、やだ、でも……止めないで……」
村瀬さんは何も言わず、静かに唇を重ねてきた。拒まなかった。もう、何も拒めなかった。
そして、ついに彼の熱が、私の奥へとゆっくりと沈んできた。
夫よりも、ずっと大きかった。入った瞬間、身体が割れてしまいそうで、目の前が白くなる。けれど、それ以上に――奥に届く、その感覚が、あまりにも満たされすぎていた。
「……入ったな」
そう言った彼の息が、私の頬にかかる。その声に、安心してしまう自分がいた。
動くたびに、中が擦れる感覚が快楽に変わる。脚を絡めてくる私自身の行為に、驚きと、もう戻れないという絶望のような感情が湧いた。
「感じてるの、わかるよ」
耳元で囁かれた瞬間、私は堰を切ったように達してしまった。
何度も、何度も――突き上げられ、満たされ、溢れていく。
行為の最中、私は何度も自分を責めた。夫の裏切りを許せず、でも私もまた違う形で誰かに抱かれ、抱かれている。
でも、それでもなお、あの夜の私の身体は、村瀬さんを選んでいた。そうとしか、思えなかった。
「……もう、いいですか?」
行為が終わり、ベッドの中でそう言った私の声は、涙を含んでいた。
「……ああ」
短く答えた彼は、煙草を取り出して窓辺へ立った。
私は、乱れたシーツの中で、ゆっくりと呼吸を整える。全身が、まるで初めて恋をしたあとのように火照っていた。
けれど、心の奥に残ったのは快楽だけではない。
たしかに赦せないことはあった。でも、私もまた誰かを裏切った。
じゃあ、これでチャラになるのだろうか――そんな思いが胸を掠める。
夜が明ける少し前、私はそっと立ち上がり、バスルームで鏡を見る。
そこに映った女は、どこか清められたような、でも何か大切なものを落としてきたような目をしていた。
子どもを迎えに行った帰り道、助手席に座る小さな寝顔を見て、不意に涙が溢れた。
「ごめんね」
その言葉が、誰に向けたものかもわからないまま。
けれど、あの夜の感覚だけは――
身体の奥深くに、鮮やかに焼きついている。
今でも、時折ふとした瞬間に思い出す。
たとえば、胸がふと張った時。
たとえば、シャワーが脚の間を流れていく時。
私の中にある“女”の部分が、確かに目覚めた夜。
それが、あの一夜だった。



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