【前編・序章】
“交際3年目の温泉旅行。なのに、なぜ俺は、あの夜の彼女を知らなかったのだろう”
かおりと付き合いはじめて、今年で三年になる。
出会いは職場。俺が28歳の営業職、彼女は23歳の事務スタッフとして新しく配属されてきた。
最初は、「ちょっと地味だけど、笑顔がやたらかわいい子」という印象だった。だが、それはすぐに変わった。
意見が合いやすく、気を使わず話せて、趣味も近い。なにより、温泉が好き――。
会話の中で、ふと口にしたその言葉に、「ほんとに?」と食いついてきた彼女を、今でも覚えている。
俺は、昔から温泉地の空気が好きだった。
観光よりも、静かな湯宿に泊まって、夕暮れの湯けむりを眺める時間が好きだった。
彼女もそうだった。派手さはないけど、情緒に惹かれるタイプ。
そんなかおりを、俺は少しずつ、本気で好きになっていった。
付き合いが長くなるにつれ、倦怠期というほどじゃないけど、刺激は減った。
月に数回、会えば一緒にご飯を食べて、映画を観て、部屋でまったり。
身体を重ねることもあるけど、彼女はいつもどこか一歩引いていて、「私、そういうの、得意じゃないから」と笑っていた。
それでも、俺はそれで良かった。
彼女の無理のないペースに合わせていくうちに、自然と「この人と結婚するんだろうな」と思うようになった。
そんなときだった。
かおりの誕生日に、久しぶりの旅行を計画したのは。
「秋の温泉、いいね。最近ぜんぜん行けてなかったし」
「久しぶりにちゃんとした旅館、予約したから」
「……ふふ、ありがとう」
彼女の笑顔は、変わらず穏やかだった。
向かったのは、長野の奥地にある老舗旅館。
築70年の木造建築で、リニューアルされてるけど、廊下を歩くだけで軋む音が心地いい。
紅葉の名所としても知られていて、露天風呂からは川と渓谷が一望できる。
昔、両親と来たことのある旅館だった。
「こんなところ、知ってるなんて意外」
「俺、渋いからな」
「ふふ、知ってる」
チェックインを済ませ、仲居さんに案内された部屋は、廊下の一番奥にある角部屋。
障子を開けると、縁側の向こうに紅葉の木々が広がっていて、部屋全体が朱に染まっていた。
「……ここ、すごく落ち着くね」
そうつぶやく彼女の横顔を見て、俺は思った。
今日だけは、久しぶりに、ちゃんと抱きしめたい。
旅館の空気がそうさせたのか、彼女の表情がいつもより柔らかかったからか、わからない。
その夜。
旅館の夕食を部屋で楽しみ、露天の混浴風呂に向かったときだった。
すでに湯に浸かっていたのは、50代半ばくらいの夫婦。
男の方が、落ち着いた声で俺たちに話しかけてきた。
「若いって、いいですねえ」
「はは、ありがとうございます」
声は穏やかだったが、男の眼差しにはどこか鋭さがあった。
その視線が、ふと彼女に向いたとき。
彼女は、わずかに、目を逸らしきれずにいた。
俺の知らない、わずかな緊張。
風呂の中で、彼女の肌が湯の温度とは違う紅さを帯びていく。
それが、ただの湯冷めではないことに、俺は気づいていた。
──あのとき、目を逸らさずに、見ておけばよかったのかもしれない。
彼女が「ちょっと酔い冷ましに行ってくる」と言って部屋を出たのは、それから1時間後。
廊下に響く足音、やけに静かな空気。
そのすべてが、今となっては前兆だったのだと思う。
そして俺は、その“静けさの裏”で起こっていたものに、気づいてしまう。
第二章
「彼女が知らない温度にほどけていく夜」
──覗き見たのは、裏切りではなく、目覚めの瞬間だったのかもしれない。
部屋には、静けさしかなかった。
夕食後、ふたりで露天風呂に入り、卓球をして、ビールを飲んだ。
すっかり上気したかおりが「ちょっと酔いさましたい」と言って出ていったのは、午後9時を少し過ぎた頃だった。
俺はそのまま布団に横になっていた。
天井の木目をぼんやりと眺めながら、「今日は何かが違うな」と思っていた。
…あの視線。
混浴風呂で出会ったあの中年男――菅田と名乗った男が、湯に沈めたまま彼女を見ていたときの、静かな目。
どこか、男と男の間で、何かを試されているような気がした。
10分ほどして、俺も風呂へ向かおうと立ち上がった。
ふと廊下に出たとき、聞こえたのは、微かで甘く、息の詰まるような声。
それが、かおりのものだと気づいたとき、時間が止まったように感じた。
音のする部屋は──隣室。
躊躇いと好奇心と、そして、恐ろしいほどの確信が胸を締めつける。
“まさか”と、“もしかして”の間で、指先が震える。
俺は、そっと自室の縁側から隣のベランダへと身を乗り出した。
1メートルにも満たない距離。すだれ越しに見える、うすぼんやりとした灯りの輪。
その向こうに、見慣れたうなじがあった。
かおりだった。
浴衣の襟は乱れ、肩が露わになっていた。
背中を撫でるように、男の手が這っている。
彼女の脚がわずかに開かれ、その中心に指が触れているのが、分かってしまう。
かおりの口元がかすかに開き、小さな喘ぎが漏れる。
「……うん、そこ、やだ……でも、やめないで……」
その声は、俺の知る彼女のものだった。
だが、それ以上に、知らない声音だった。
恥じらいでも、理性でもなく、
ただ本能のままに快楽を求める女の声。
男の指がゆっくりと動くたびに、かおりの身体が微かに震える。
膝が崩れ、両手が布団を掴み、脚が開ききっていく。
俺の胸に、鋭く何かが突き刺さった。
…こんなかおりを、俺は一度も見たことがない。
何度抱いても、彼女はどこか遠慮がちだった。
俺に遠慮し、俺を傷つけないようにしていると、そう信じていた。
だが今、彼女は、何の躊躇もなく、
他人の指に、全身で応えていた。
男の声が低く、腹の底から響いた。
「すごいね……かおりちゃん、もう、こんなに濡れてる」
「……やだ、そんな言わないで。自分でも、わかんないの……なんでこんな、身体熱くなるのか……」
「気持ちいい?」
「……うん、すごく。すごく……気持ちいい」
俺の足元がぐらついた。
目の前で、俺の恋人が、自分以外の男の指にイかされようとしている。
でも、目を逸らせなかった。
彼女の眉が震え、指が布団を握り締め、そして。
「あっ、だめ……イく、イっちゃう……ッ!」
湯けむりのような声とともに、かおりは身体を反らせ、絶頂に達した。
しばらくの沈黙。
微かに肩を揺らしながら、彼女は息を整えていた。
男が、彼女の髪をそっと撫でる。
まるで、手に入れたばかりの宝物を扱うように。
そのあと彼女が口にした言葉が、俺の心に突き刺さる。
「……なんで、こんなに満たされるんだろ……」
俺はもう、彼女の中にいなかった。
第三章
「快楽の底で、名前を忘れる」
──そこにいたのは、“かおり”ではなくなった彼女だった。
俺はまだ、ベランダの陰にいた。
視界の先では、浴衣を脱ぎ捨てたかおりが、あの男――菅田の指にイかされた直後、微かに震えている。
もう何分そこにいたのか、時間の感覚はとうに消えていた。
かおりは、湯上がりの肌のまま布団に倒れ込んでいた。
菅田はその横に腰を下ろし、彼女の髪を撫でながら、静かに言った。
「……かわいいよ、かおりちゃん。まだ、物足りない顔してる」
その言葉に、彼女はほんの一瞬だけ、微かに首を振った。
でも、彼の指が頬に触れた瞬間、かおりの目がまた潤みはじめた。
「……どうして、こんなことに……」
そうつぶやいた声に、迷いはなかった。
戸惑いながらも、彼女の身体が求めていることを、もう否定できないでいる。
「ほら、こっちにおいで」
菅田はゆっくりと仰向けになり、自らの脚の間にかおりを導いた。
彼女は、まるで夢のなかを歩くように、ゆっくりと、男の身体にまたがった。
太ももを開く動きすら、もはや逡巡の名残はない。
ただ、その瞳に映っていたのは、俺じゃなかった。
男のものに触れたとき、彼女は一瞬だけ指を止めた。
それが“恐れ”なのか、“憧れ”なのか、俺には判断できなかった。
ただ、そのあと自らの手でそれを握り、自分の中へと導いた。
「……っ、あ……あああ……っ」
かおりの喉から、壊れかけた音が漏れる。
ゆっくりと腰を落とすたび、菅田の男が、深く、深く、彼女を満たしていく。
唇を噛み、爪を自分の太ももに立てながら、彼女は堪えようとしていた。
けれど、その反動に耐えきれず、腰が無意識に動きはじめる。
一度覚えた波に、身体が自然と反応してしまうのだ。
「あっ、あああ……だめ、深い、すごい、……全部……埋まってる……」
俺は、ただ呆然と見ていた。
かおりが、他人の身体に、自らの熱を預けている。
それはもう、“かおり”ではなかった。
俺の知っていた、少し恥じらいがちで、どこか控えめだったあの彼女ではない。
男が言った。
「彼氏より……気持ちいい?」
その問いに、彼女は小さく頷いた。
言葉に出さなかったのは、最後の理性がせめてもの拒絶だったのか、
それとも、彼女の中で俺がもう“名前”すら持たない存在になっていたからか。
「……好き……すき……それ、もっと、突いて……」
男の腰が打ちつけられるたび、かおりの身体が上下に弾ける。
濡れた髪が頬に張り付き、乳房が大きく揺れ、喉が甘く鳴る。
何度も、何度も、まるで終わりがないように、彼女は快楽の波にのまれていく。
俺の視界が揺れた。
怒りも、悲しみも、恥も、なかった。
ただ、目の前で愛していたはずの女が、
別の男によって、“目覚めていく”その瞬間を、俺は理解してしまった。
かおりは、愛していた。
俺ではなく、“自分の身体を知ってくれる誰か”を。
その夜、彼女は俺の恋人ではなかった。
ただ、自分の快楽に正直な、“女”だった。
──彼女が喘ぐたび、俺の中の「かおり」は壊れていった。
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