輪●計画 社長秘書編 長谷川夕奈
輪●計画 社長秘書編 長谷川夕奈長谷川夕奈
【第1部】深夜オフィスの細い光と、社長夫人の声に似た「幽霊」を聞いた夜
私の勤め先は、三十五人ほどの小さな会社だ。
名古屋の外れ、少し古びた四階建ての雑居ビルの三階と四階を借りている。
三階は事務と営業、四階は会議室と倉庫。それぞれのフロアに三つずつ部屋があって、広い部屋が二つ、少し狭い応接室が一つ。私がよく使うのは、その狭い部屋だ。お客さんとの商談にも使うし、ひとりで書類を整理するときの“避難場所”にもなる。
その夜は、半期の打ち上げだった。
参加者は二十人ほど。小さな会社だから、ほとんど顔見知りばかりだ。
社長は五十三歳。乾杯だけ済ませると「悪いな、ちょっと用事があって」と笑って店を出ていった。その隣に座っていた奥さん――総務を取り仕切る社長夫人の
麗子(れいこ)
さんは、最後までテーブルに残った。
年齢は四十八歳くらい、と聞いている。
いつもはきちんとまとめた髪、濃紺のワンピースに、まっすぐなヒール。細くて、無駄な肉が一切ない身体。口調はきつめで、ミスをすれば容赦なく指摘してくるから、社内では少し怖がられている人だ。私もそのひとりだった。
飲み会が終わったのは、夜九時半ごろ。
駅四つ分離れた居酒屋で解散し、それぞれが電車に乗って散っていく。私は改札を抜けたところで、ふと青ざめることになった。
――ファイル、職場に置きっぱなしだった。
週末にどうしても直しておきたい書類がある。月曜の朝には提出しないといけないのに、デスクの上にそのまま積んである光景が、酔いを引き剥がすように頭に浮かんだ。
「最悪……」
小さくつぶやきながら、私は乗ってきたのとは逆方向の電車に飛び乗った。
そこから二十分ほど戻れば、職場のある駅だ。土曜の夜、車内はまばらで、窓ガラスに自分の顔がうっすらと映っている。
駅からビルまでは徒歩五分。
夜十時過ぎの雑居ビルは、外から見ると、三階と四階だけがうっすらと闇に沈んでいた。ネオンも看板も消えていて、非常階段の影がコンクリートの壁に長く伸びている。
エントランスの自動ドアを抜け、エレベーターに乗る。
《3》のボタンを押すと、ゆっくりとした振動とともに、箱が上へと持ち上がっていく。鏡に映る自分の顔は、さっきまでの宴会の笑顔とは少し違って、どこか緊張していた。
三階で扉が開くと、廊下は暗かった。
非常灯だけが緑色の小さな光で足元を照らしている。誰もいないビル特有の、紙とカーペットと埃がまじった匂い。外の車の音だけが遠くから聞こえてくる。
パンプスの音をできるだけ立てないように気をつけながら、私は奥の自分の部屋に向かって歩きだした。
そのときだった。
――あ……あぁ……。
廊下の途中、狭い応接室の前を通りかかると、かすかに声がした。
最初は、聞き間違いかと思った。空調でも、配管の音でもない。
もう一度、耳を澄ます。
――いや……あ……。
息を切らすような、細い女性の声。
悲しんでいるようでもあり、苦しんでいるようでもあり、でも、どこかで聞き覚えのある響き。
幽霊なんていない。
そう頭ではわかっているのに、背中にぞくぞくとした鳥肌が立つ。
ドアは、少しだけ開いていた。
中は真っ暗で、廊下側の非常灯の緑色が、ドアの隙間から細く漏れている。
――……や……めて……。
その言葉を聞いた瞬間、私は呼吸を止めた。
その声は、知っている。
昼間の会議室で、ミスをした社員を叱る、あのときより少し高く、震えた声で。
――麗子さん?
胸の奥で、名前がこぼれた。
私は反射的にバッグを胸に抱え込み、パンプスを脱いで手に持った。足音を殺しながら、半分開いたドアのすぐ横に身を寄せる。
中を覗く勇気は、まだない。
けれど、耳は、閉じられなかった。
【第2部】「いや」と言いながら溶けていく社長夫人と、年下男子の影を見てしまった私
ドアの隙間から漏れてくるのは、声だけではなかった。
誰かがソファに体を預けるときにきしむ、低い音。
布が擦れる音。
何かを押し殺すような、喉の奥で震える息遣い。
――あ……そこ……だめ……。
――いいじゃないですか……誰も、来ませんよ……。
男の声がした。
若い。少なくとも五十代の社長の声ではない。
耳に馴染みのある、あの少し軽い喋り方。
営業部の後輩、
拓真(たくま)
くんだ、と気づいた瞬間、心臓が喉までせり上がった。
彼は二十六歳。
学生時代にラグビーをやっていたらしく、がっしりとした体つきで、飲み会のときも周りを笑わせてくれるタイプだ。仕事では少し抜けているところがあって、よく麗子さんに厳しく注意されていた。
その二人の声が、暗い部屋の中で重なっている。
私は、ドアの隙間から、ほんの少しだけ顔を近づけた。
部屋の中はほとんど真っ暗で、明かりといえば大きな窓から差し込む街灯の光だけだった。
薄いレースのカーテン越しに、オレンジの光がゆらゆらと揺れている。その淡い光が、三人掛けのソファのあたりだけを、ぼんやりと照らしていた。
ソファには、二つの影が重なっていた。
片方は、細い脚を乱暴に投げ出すように横たえられた身体。
スカートの裾が思いきり押し上げられて、白い脚が露わになっている。
ヒールは片足だけ脱げて、もう片方はまだパンプスを履いたまま、ソファの端をかろうじて掴んでいる。
もう一つの影は、その身体に覆いかぶさるようにしていた。
片膝をソファに乗せ、もう片方の脚を床についた、背中の広い男のシルエット。シャツの背中に浮かぶ筋肉の線が、街灯の光に沿って浮き上がる。
――や……ほんとに……。
――ずっと、我慢してたんです。麗子さん、そういうの、気づいてないんだから……。
笑いを含んだような、でもどこか熱を帯びた拓真の声。
そのたびに、横たわる身体の肩が小さく震えるのが見えた。
私は喉を鳴らすのもこわくて、口元を手で塞いだ。
耳の奥がじんじんして、膝が少し震える。
何がいけないのかわかっているのに、目だけが離せない。
麗子さんの脚は、細くて、白い。
いつもタイトスカートの下に隠れている膝から太ももにかけてが、今はソファに投げ出されて、レースの縁がちらりとのぞいている。
薄いストッキングの上から、拓真の大きな手が滑るように動くのが見えた。
――そこ……だめ……。廊下に……聞こえる……。
――大丈夫ですって。本当に怖かったら、止めてくださいよ……。
いや、という言葉と、止めない身体。
その矛盾が、私の頭を混乱させた。
それは、昼間のオフィスで見慣れている“社長夫人”とは、まるで違う姿だった。
いつもは他人のミスを容赦なく切り捨てる鋭い声が、今は断片的な吐息と、小さく漏れるかすれた言葉に変わっている。
拓真がふいに顔を上げた気配がした。
ソファの上で、何かがほどける音。
レースの布が、ふわりとずれおちるような気配。
私はそこから先をはっきり見ようとはしなかった。
怖かったのだと思う。
自分の中で何かが変わってしまうことが。
代わりに、耳が勝手に拾ってしまう。
衣擦れ。
息を飲む音。
押し殺したような「やめて」という言葉と、その直後に続く、震えた「そこは……」という囁き。
ソファのきしみは、だんだんと一定のリズムを持ち始めた。
それと同時に、麗子さんの声も、静かな波みたいに高くなっていく。
――や……だから……声……出ちゃう……。
――いいですよ、出したら。どうせ誰も、来ませんから……。
私は、自分の足元を見た。
裸足になったつま先が、薄暗いカーペットに沈んでいる。
腰のあたりが熱く、スカートの中で、自分の身体がかすかに脈打つのがわかる。
何を見ているのか。
誰を見ているのか。
そして、なぜ自分の身体が反応しているのか。
答えはひとつもわからないまま、時間だけが溶けていく。
やがて私は、ほとんど無意識のまま、そっとドアから身体を離した。
息を殺したまま、隣の部屋のドアノブに手を伸ばす。
きしむ音を立てないよう細心の注意を払いながらドアを開け、忘れてきたファイルだけを掴む。
そして、再び廊下に戻ってくると、さっきよりもはっきりとした音が耳を打った。
――っ……あ……。
パンプスのヒールが、床を軽く叩く音。
どこか必死な、押し寄せる波に耐えるような、かすれた息。
「今、通らないと」
頭のどこかで、冷静な声がした。
私はファイルを胸に抱え、呼吸を止めたまま、応接室の前を一気に歩き抜ける。
すれ違う瞬間、背中側から聞こえてきた。
――だめ……そこ……お腹の奥まで……くる……。
――……もう、がまん……。
――や……だめ……そんなこと言ったら……。
ドアの隙間から漏れる光は、さっきよりも少しだけ揺れていた。
私は足を止めることなく、そのままエレベーターに飛び乗る。
扉が閉まる直前、かすれた叫びが、かろうじて耳に届いた。
――……もう……だめ……。
それが、どんな意味を持つ言葉なのか。
私は目を閉じ、何も考えないふりをしながら、《1》のボタンを押した。
【第3部】普通の月曜の「おはようございます」と、私の中でだけ続いているあの夜の余韻
電車に揺られながら、私はファイルの角を指先でなぞっていた。
あの応接室で見た光景。
ほとんど暗闇の中で、輪郭しかわからなかったはずの二人の姿が、頭の中では何度も補完されていく。
麗子さんの、細くて、白い脚。
ソファの縁を掴むように持ち上げられたヒール。
覆いかぶさる拓真の背中。
レースの裾の、そのもう少し上。
目を閉じると、声だけが残る。
「やめて」「だめ」と言いながら、どこか溶けていくような震えを含んだ声。
止めようと思えば止められたはずなのに、止まらなかった時間。
気づけば、頬が熱かった。
酔いのせいなのか、別の何かなのか、自分でも判断がつかない。
家に着くと、時計はすでに十一時をまわっていた。
シャワーを浴びても、洗い流せないものがあった。
熱だけが、肌の内側に残っている。
ベッドに入っても、なかなか寝つけない。
枕に顔を埋めると、暗闇の中で、さっきの光景が鮮やかさを増して立ち上がる。
――どうして、あんな声を出していたんだろう。
――どうして、止めなかったんだろう。
――どうして私の身体まで、こんなにうずいているんだろう。
答えのない問いは、熱を帯びて胸の奥に絡まりつく。
やがて私は、ゆっくりと目を閉じた。
自分の身体の輪郭を、そっと指先でなぞりながら。
土日を挟んで迎えた月曜の朝。
オフィスの空気は、何事もなかったかのようにいつも通りだった。
九時ちょうど。
エレベーターの扉が開いて、社長と麗子さんが一緒に出勤してくる。
並んで歩く姿は、いつもと変わらない夫婦そのものだ。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、社長は軽く会釈し、麗子さんはいつもの少し冷たい笑顔で「おはよう」と返した。
あの夜のことなど、まるでなかったかのような表情で。
九時半。
営業部の席に、拓真がやってくる。
「おはようございます!」
明るい声。
少し眠そうな目。
それでも、金曜日と同じように、パソコンを立ち上げ、資料を確認している。
あの応接室で、彼の背中がどれくらい激しく揺れていたのか。
そのとき麗子さんがどんな顔をしていたのか。
私は知っているようで、何も知らない。
昼休み、給湯室でたまたま麗子さんと二人きりになった。
彼女はマグカップにコーヒーを注ぎながら、いつものように淡々とした口調で言う。
「この前の決算資料、助かったわ。週明けすぐに確認できてよかった」
「あ……いえ……」
あの夜、ファイルを取りに戻ったことを、彼女は知っているのだろうか。
もし、私がドアの前に立っていたことまで知られていたら――そう想像するだけで、背筋がひやりとする。
でも、麗子さんの横顔は、なにも語らない。
口紅の色も、アイラインの角度も、あの日と同じ。
きっちりとまとめ上げられた髪から、週末の夜の乱れを想像することはできない。
それでも、私の中でだけ、あの夜は続いていた。
会議中、ふと視線を上げると、拓真が真剣な顔で資料を見つめている。
隣に座る麗子さんは、いつものように冷静に数字をチェックしている。
ふたりの間には、仕事上の距離がきちんと保たれている。
誰も、気づかない。
この二人が、金曜の夜の応接室で、言葉にならない音を漏らし合っていたことを。
その秘密を知っているのは、世界で私だけだ。
その事実が、私の中に奇妙な感情を生み出していた。
嫉妬とも憧れとも違う、名付けようのないざわめき。
視線を送るたびに、身体の奥が、ふっと熱を帯びる。
――もう一度、見てしまったら、私はどうなるんだろう。
そんなことを考えている自分に気づいて、笑ってしまう。
私は決して大胆なタイプではない。
でもあの夜、ドアの隙間から少しだけ覗いてしまったときの、自分の息遣いを思い出すと、その“臆病さ”さえも、どこか頼りなく感じられる。
帰りの電車の中で、私はスマホを眺めながら、あの応接室の前の廊下を思い浮かべた。
非常灯の小さな緑色。
半分だけ開いたドア。
中から漏れてくる微かな声。
――もう一度、立ってみたい。
今度は、怖がらずに。
今度は、目をそらさずに。
今度は、誰かのことだけじゃなく、自分の欲望そのものからも逃げないで。
そんなふうに考えてしまう自分を認めてしまったとき、胸の奥で、なにかが静かにほどけていく音がした。
まとめ──「見てしまった夜」から始まる、女性の性欲と秘密の目覚め
この体験は、一度きりの「事故」のようにも見える。
たまたま書類を取りに戻った夜、たまたま少しだけ開いていたドア、たまたま漏れてきた声。
偶然が重なっただけ――そう言い聞かせることもできる。
けれど、私の身体は知っている。
あの瞬間、自分の中で何かが確かに目を覚ましたことを。
社長夫人という「きちんとした大人の女」が、年下の男子社員と重なりながら、押し殺した声を漏らしていたこと。
その姿を見て、羨望とも興奮ともつかない感情に飲み込まれた自分がいたこと。
そして、その夜ベッドに潜り込んだとき、私は自分の身体の声を、いつもより少しだけ素直に聞いてしまったこと。
仕事中、私は相変わらず「普通の事務員」だ。
エクセルを整え、ファイルを綴じ、電話を取り次ぎ、ミスをすれば麗子さんに注意される。
拓真は、相変わらず少し抜けていて、でも憎めない笑顔で周りを和ませている。
表面上は、なにも変わっていない。
ただひとつ違うのは、私が“見てしまった”という記憶を、誰にも話さず抱えていることだ。
女の性欲は、たぶん、誰かにわかりやすく説明できるものじゃない。
「好きだから」「寂しいから」「満たされたいから」という言葉の奥に、もっと複雑な何かが絡み合っている。
あの夜の麗子さんの声も、きっとその絡まりのどこかから漏れた音だったのだと思う。
そして、それを覗き込んでしまった私の中にも、同じような絡まりがあった。
ただ、それに気づかないふりをしていただけ。
あの応接室のドアの隙間から漏れてきたのは、二人の吐息だけじゃない。
私自身の「まだ触れられていない欲望」が、暗闇の向こうから呼びかけてきた声でもあったのだと思う。
いつか、私も――
誰かと、あの狭いソファに腰を下ろす日がくるのだろうか。
それとも、ドアの外に立ち続けるだけなのだろうか。
答えはまだ出ない。
けれど、一度目を覚ました欲望は、もう以前のようには眠ってくれない。
通勤電車の揺れの中で、私は今日もスマホの画面を見つめるふりをしながら、心のどこかで、あの夜の廊下と、細い光の筋と、社長夫人の震える声を、繰り返し再生している。



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