【第1部】沈黙の午後──閉ざされた扉の向こうで揺れる欲望
私の名前は 結衣(ゆい)、二十歳。
大学一年を過ごすこの春から、ひとり暮らしをやめて、再び実家のある 京都・伏見に戻っていた。都会の喧騒から一歩離れた住宅街は、いつもと変わらぬ静けさに包まれている。
けれど、この日曜の午後だけは違った。
両親は遠方の親戚宅へ出かけ、家には私と姉だけ。
その姉が連れてきたのは、彼女の恋人だった。
玄関をくぐる笑い声、階段を上る軽やかな足取り。
「ちょっと、部屋でゆっくりしてくるね」──そう告げて二階の扉を閉めた。
残された私はリビングで読書をしていた。けれど、文字は目をすべり落ち、意味を結ばない。
上の階から響く断片的な会話に耳が絡め取られてしまうのだ。
やがて声は途切れ、家全体が呼吸を止めたような静寂に包まれた。
時計の針の音さえ大きく感じる。
心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響いている。
「何をしているの……?」
自分に問いかけながら、私は足音を殺して階段を上がる。
廊下には薄い光が差し込み、静けさを一層際立たせている。
自室に入ろうとした瞬間──
「あ……っ」
壁越しに、姉の吐息がこぼれ落ちてきた。
それは、私が知るどんな声とも違った。
普段の明るさも、社会人としてのきっぱりした響きもなく、柔らかく、濡れた花弁のように震えていた。
私は一瞬で立ち尽くした。
逃げたいのに、逃げられない。
扉に背を預けたまま、耳だけが向こう側に吸い寄せられる。
ベッドが軋む音。
衣擦れのざわめき。
低く押し殺すような男の声。
「妹さん、隣にいるんだろ……」
私は凍りついた。
しかし次の瞬間、血が一気に熱を帯び、頬が火照る。
聞いてはいけない。
けれど、聞きたくて仕方がない。
指先が震えるほどの緊張の中で、私は初めて知った。
欲望とは、目で見るより先に、音で触れてしまうものなのだと。
【第2部】壁を伝う律動──声に濡れる予兆の午後
壁に背を預けたまま、私は呼吸を浅くする。
姉の声は、ひとつの言葉になりきれない断片の連なりだった。
「あ……だめ……そこ……」
その吐息は、泣き声のようでいて、確かに悦びを孕んでいる。
言葉が切れるたびにベッドのスプリングが低く軋み、その律動が壁を震わせる。
私は自分の胸に手を当てる。
心臓は早鐘のように打ち、まるで向こうの律動と足並みを揃えようとしているかのようだった。
「もっと……近くに……」
姉の声がかすれ、震える。
布が擦れる微音が加わり、想像は輪郭を帯びる。
見ていないのに、見えてしまう──そんな錯覚に、頬が火照っていく。
私は唇を噛み、吐息を押し殺した。
それでも、身体の奥は耳から伝わる熱に溶かされていく。
「だめぇ……そこ、やめないで……」
懇願のような響きが、私の内側を強く打つ。
その声は「拒絶」ではなかった。
むしろ、さらなる欲望を肯定する音色。
私は両腕で自分を抱きしめる。
指先にまで血が集まり、布越しに熱が伝わる。
壁を隔てているはずの他人の鼓動が、自分の内側にまで響き渡ってくる。
部屋の空気は乾いているのに、肺の奥には湿った熱気が溜まっていく。
それはまるで、雨が降る前に大地が立ち上らせる蒸気のようで、じわじわと私を包み込む。
私は悟った。
この濡れは、姉だけのものではない。
壁越しに、確かに私の中にも浸み込んでいる。
【第3部】絶頂と余韻──境界を越える感覚
律動は次第に速まり、壁越しの世界はまるでひとつの楽曲のように形を変えていった。
浅く刻まれる呼吸、シーツの軋むリズム、途切れ途切れの言葉。
そのすべてが、ひとつの旋律となり私の身体を震わせる。
「もう……だめ……っ」
姉の声が、震える高音で天井に突き抜ける。
それは痛みに似た叫びでありながら、私には祝福のように聞こえた。
続けざまに、低く唸るような彼の声が重なり、部屋の空気は一気に張り詰める。
私は息を止め、耳を押さえる。
それでも、身体の内側にまでその衝撃は届いてしまう。
見ていないのに、見えてしまう。
触れていないのに、触れられてしまう。
瞬間──
壁が震え、すべての音が頂点で絡み合った。
姉の声は涙のように途切れ、最後は細く長い吐息へと変わる。
彼の息も荒く、熱の余韻を噛みしめるように低く続く。
そして、静寂。
その沈黙は、ただの終わりではなかった。
甘い香りが漂うような、余韻の沈黙だった。
私は自室のベッドに崩れ落ち、両腕で自分を抱きしめる。
胸の奥に残る鼓動は、もう私自身のものではなかった。
それは隣室で響いた二人の鼓動と重なり、境界を越えてしまったのだ。
「いつか……私も」
声にならない誓いが、唇の内側で震える。
境界線は確かに存在した。
けれど、その一線を越える日は、遠くないと予感していた。
私は知ってしまった。
欲望の絶頂は、肉体のみに宿るのではない。
耳で触れ、空気で抱かれ、心の奥で濡れることで訪れるのだと。
まとめ──壁越しに知った欲望の始まりと私の目覚め
この午後、私は偶然にも姉と恋人の熱を「壁越し」に感じてしまった。
姿は見えなくとも、声・律動・吐息・沈黙──それらが織りなす旋律は、私の五感と心を根こそぎ奪った。
欲望とは、目で見た瞬間に始まるものだと思っていた。
けれど本当は、聞こえてしまったその時から、すでに濡れは始まっている。
そして、触れなくても、身体は震え、心は応えてしまうのだ。
姉の声は、私にとって“禁断の教材”だった。
拒絶のように聞こえるその声は、実は求めている証であり、涙のような吐息は、喜びの極みに触れた証だった。
その事実を知ったとき、私は背徳の中で目覚めてしまった。
──いつか、自分もあの境界を越える日が来る。
それを予感させる午後の出来事は、私にとって「最初の体験談」として、永遠に心と身体に刻まれている。
官能とは、肉体の交わりを目撃することではなく、
見ないで知る・触れないで濡れる という逆説のなかにこそ芽生える。
私はそのことを、あの日、壁一枚を隔てた場所で学んだのだ。




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