電車が混む時間は、できれば避けたいのに。
それでも、あの朝は遅れに遅れて、満員の車両に身を押し込むしかなかった。
吊革を掴む間もなく、押し流されるように乗り込んだ私は、前に立っていた彼の背中に、胸を押し当てるかたちになってしまった。
白いシャツの背中越しに伝わる、体温。
柔らかい髪の香り。
細い肩。
それだけで彼が、私よりずっと若いことがわかった。
彼はぴくりと肩をすくめるように反応して、それから少しだけ、身を硬くした。
(…あ、ごめんなさい)
心の中で呟きながら、私はどうすることもできなかった。
車内は身動きがとれないほど混んでいたし、こちらが下手に動けば、よけいに擦れてしまう。
だが、私の胸の感覚が、それを許さなかった。
布越しに感じる、彼の背中の輪郭。
立っているだけなのに、じんわりと熱が伝わってくるような気がする。
私は37歳。
結婚して十年、子どもはいない。
夫は最近、別の県に単身赴任していて、家の中は静かだ。
静かすぎて、夜が長い。
女としての私を、もう誰も見ていない。
鏡の前に立つたび、少しずつ色褪せていく自分に気づいては、笑ってごまかしていた。
でも、今日のこの数分間だけは違った。
彼の背中が、私の中に何かを目覚めさせた。
眠っていた欲望に、そっと火が灯るのがわかった。
その日から、私は朝の時間を少しずつずらして、彼と同じ車両に乗るようになった。
顔を覚えられるのは怖い。
だからいつも、彼の背後に立つ。
偶然を装い、同じように密着する。
彼の反応は、最初の時とほとんど変わらない。
驚き、硬直し、それでも逃げずにそのままでいてくれる。
私はそれを、毎朝、身体で覚える。
彼が動くたびに、私の胸の先が擦れる。
少しずつ、感覚が研ぎ澄まされていく。
下着越しに感じる温度と、その奥の疼き。
家に戻ると、その感覚が身体に残っていて、私は一人でベッドに沈む。
指先で、自分の中をなぞると、彼の背中のぬくもりが蘇ってくる。
(私は今、誰を抱いてるの?)
わからないまま、ただ求める。
そしてある朝。
私の後ろにいた彼が、ほんの少し、振り向いた。
目が合った。
一瞬で、時が止まった。
黒縁の眼鏡の奥の瞳は、驚きよりも、どこか決意を宿していた。
「……毎朝、ですよね?」
低く、小さな声だった。
私は何も言えなかった。
ただ、顔が熱くなって、まばたきすら忘れていた。
「来週の日曜、会ってくれませんか」
駅に着く直前、彼が私の手に何かを押し込む。
紙に書かれた、連絡先と名前。
《優人(ゆうと)/19歳》
待ち合わせは、カフェではなく、ビジネスホテルのラウンジだった。
彼はジャケットに身を包み、少し背伸びをして大人の顔をしていた。
「すみません。こういうの、初めてで」
そう言って笑った彼の笑顔は、やはり年相応だった。
でも、その奥にある欲望は、私と同じ熱を帯びていた。
「……ホテルの部屋、取ってあります」
その言葉に、私は頷いていた。
理性の声は小さかった。
あの満員電車で、私はもう、自分を許していたのかもしれない。
部屋に入ると、彼はしばらく、私を見つめるだけだった。
「本当に……綺麗です。ずっと、言いたかった」
その一言で、私は、女として再び命を与えられた気がした。
彼の手が私の頬にふれ、やがて唇に重なる。
ゆっくりと、確かめるように。
若いのに、焦りはない。
その丁寧さが、かえって私をほどいた。
シャツのボタンを外され、ブラウスが滑り落ちる。
肩が露わになると、彼は少し息を呑んだ。
「ノーブラ……だったんですね」
「……気づいてた?」
「気づかないふり、してました」
笑い合う時間は短く、すぐに、身体が動き始めた。
肌と肌が重なり合う瞬間、私は19歳だった頃の自分を思い出していた。
何も知らずに、ただ愛されたかったあの頃。
けれど今は違う。
私は自分で選び、自分の足で、ここに来た。
優人の手は、まだぎこちなくて、それが愛しかった。
胸を触れるたびに、指先が震えていた。
唇で乳首を含んだとき、思わず身体を反らすと、彼は驚いた顔をして見上げた。
「……大丈夫?」
「うん。もっと、して」
そう言った私の声が、自分でも意外なほど甘かった。
ベッドに横たわり、彼の舌が下へと降りていく。
おへその下、脚のつけ根。
誰にも触れられていなかった場所が、ぬるく潤んでゆく。
指が入った瞬間、私は叫びそうになった。
「ゆっくり……」
彼は何度も私の目を見た。
確認しながら、たしかめるように、深く、深く入ってくる。
奥が、濡れている。
擦れるたびに熱くなり、震えが広がっていく。
彼が上から私を見つめる。
少年のようでいて、男の目をしていた。
「逝きそう……」
私が呟いたとき、彼は私の額に口づけて、さらに奥を突いてきた。
身体が弓なりに浮き、声にならない声を漏らす。
何度も、何度も、快感の波が押し寄せて、私は彼の腕の中で小さくなった。
あとで、シャワーを浴びながら、私は鏡に映った自分を見た。
赤らんだ頬、濡れた髪、そして……生きた目。
(まだ、私、女だったんだ)
優人は、ベッドに腰掛けながら、私のブラウスを丁寧に畳んでいた。
「……また、会えますか」
「……うん。会いたい」
私は、そう答えていた。
帰りの電車の中。
今度は誰とも触れ合わなかったけれど、
私はまだ、背中に彼の温もりを感じていた。
まるで、それが――
自分自身を許すために必要な儀式だったかのように。
久しぶりのデートは、意外にも映画だった。
「ちゃんと椅子に並んで座って、隣の人に気を使わなくていい場所って、思い浮かばなくて」
そう照れたように笑う優人の隣で、私は微笑みながらも少しだけ胸が疼いた。
あの日、ホテルの白いシーツの中で感じたあの熱――
静かに燃えて、湿って、私の中をほどいていった快楽の記憶が、彼を見るたびに蘇る。
映画は、あまり覚えていない。
ただ、スクリーンの光が彼の横顔を照らすたび、唇の形や睫毛の影がやけに色っぽく見えて、
ふいに繋いだ彼の手の温かさだけが記憶に残っている。
映画館を出ると、人混みのなかでぶつかった男に軽く肩を押され、私はバランスを崩しかけた。
すぐにその男が「すみません」と言って去っていったあと、優人が私の手を強く握り直した。
「……大丈夫?」
「うん、平気よ。びっくりしただけ」
「なんか、変なヤツだったね」
「でも、謝ってたし」
私が軽く流そうとしたそのとき、優人は私のほうを見た。
目が真っ直ぐで、怒っているようで、どこか哀しげだった。
「俺……変な気持ちになった。ああやって、誰かに触れられてるの、嫌だった」
私は立ち止まり、思わず見つめ返してしまった。
「優人……?」
「おかしいよね。まだ二回しか会ってないのに。でも、電車で毎朝、あなたを見てた。あの時間が俺の全部だったんだよ」
そのまま、ホテルに向かうことになった。
チェックインのときも、部屋に入ったときも、優人はほとんど喋らなかった。
けれど、ベッドに腰を下ろした瞬間、私の手を引いて彼の膝の上に座らせた。
「今日、誰かと会ってた?」
「……え?」
「他の男。電車とか、職場とかで」
「会ってないわよ。そんな人、いない」
その瞬間、彼の腕がぎゅっと私の腰を抱き寄せた。
「他の誰にも……見せたくない。あなたの、全部」
その言葉は、鼓膜ではなく、子宮の奥に届いた気がした。
その夜の彼は、優しくて、でもどこか乱暴だった。
シャツのボタンを引きちぎるように外しながら、指先で胸の先をなぞる。
唇を押し当て、吸い付くようなキスの途中で、ふと私を見下ろして言った。
「この身体、俺のものになってよ」
私は応えずに、首をそっと傾けただけだった。
それを「肯定」だと受け取った彼は、私の太ももを広げ、そこに身を沈めてきた。
前よりも深く、迷いがなく、
熱をともなった欲望が、まっすぐ私の奥へと打ち込まれてくる。
「誰にも、渡したくない」
「……優人……そんなこと……」
言葉にならなかった。
彼が嫉妬するほどに、私はまだ誰かに“女”として見られる存在なのだということが、
嬉しくて、苦しくて、愛おしくて、そして――すごく、淫らだった。
優人が果てたあと、私はその腕のなかでしばらく目を閉じていた。
嫉妬は、こんなにも甘美なのかと思った。
所有される悦びと、縛られる罪悪感のあいだで揺れながら、
私は、ひとつの“恋”という名の沼に、足を沈めていた。
優人の身体の上で、私は息を殺していた。
シーツのしわが肌に貼りつき、火照った胸の先が彼の胸に触れるたび、切なく熱が募っていく。
ほんの数秒前まで、彼の奥を感じていた。
若くて、真っ直ぐで、惜しむように私の中で揺れていた彼の動き。
最後に名前を呼ばれながら果てたとき、私はまるで溶けるように彼の腕に身を預けた。
そのときだった――
「……ピリリリリリッ」
無機質な振動音が部屋に響いた。
私は反射的に顔を上げ、ベッドの脇に置いたスマートフォンを見た。
ディスプレイに浮かぶ、夫の名前。
「……うそ」
息が止まる。
こんなときに、よりにもよって。
画面が点滅するたびに、現実に引き戻される。
「……出るの?」
優人の声がかすかに震えていた。
私は小さく頷いて、タオルケットを胸に巻きつけ、通話ボタンを押した。
「もしもし? どうしたの、こんな時間に」
声がうまく出ない。
息が上がったままだ。
けれど、夫は気づいていない様子で、明るい声で言った。
「悪い、今週末さ、急に東京に戻れることになって。久しぶりに一緒に晩ご飯でもどうかと思ってさ」
「あ……そう、そうなのね。うれしい……」
そう言いながら、私はベッドの端に腰を下ろした。
そのとき、優人がゆっくりと近づいてきて、私の脚に唇を落とした。
「……ちょっと、だめ」
私は手で制そうとした。
けれど、彼の唇が膝から太ももを這い、そして指先がタオルケットの隙間から忍び込んでくる。
(――だめ、聞こえちゃう……)
「今日さ、電話だけでも声が聞きたくなって。ほんとはビデオ通話にしようかと思ったけど、今どこ?」
「……ううん、家よ、ちょっと寝てたの」
脚のあいだから、温かい指が滑り込む。
ついさっきまで満たされたはずなのに、また、身体が疼き始めていた。
唇を塞ごうと、私は枕を噛む。
けれど、優人はゆっくりと、私の奥を確かめるように指を動かしてくる。
「寝起き? なんか声、ちょっと違うな」
「……そんなことないわ、ただ、ちょっと夢見が……悪くて」
「大丈夫? 無理してない?」
「うん……平気よ、心配しないで……」
(そんな声、今出すべきじゃないのに……)
私は震える声を押し殺しながら、指の動きに抗えず、呼吸が浅くなっていく。
優人が私の髪を撫でながら、唇で耳元をくすぐる。
「……ねぇ、彼には、どんな声で返すの?」
「やめ……やめてってば……」
でも、身体は嘘をつけなかった。
指の奥で波打つ熱に、息が漏れそうになる。
夫の声が遠くで続いていた。
「来週、君の好きな店、予約しようかな」
「うん……いいわ……」
私はどこに返事をしているのかわからなくなっていた。
指が抜かれ、今度は舌が、そこに降りてくる。
「っ……!」
こめかみに汗が浮かび、私は片手で受話器を押さえながら、もう片方の手で優人の肩を掴んだ。
抑えきれず、喉の奥で声が震える。
「ん……っ、あ、あの……ごめんなさい、ちょっと……またかけなおすね」
「え? ……うん、わかった、無理すんなよ?」
通話を切った瞬間、私は声を漏らしてしまった。
「……っ、優人、もう……っ」
優人は顔を上げず、吐息まじりに囁いた。
「あなたの中が……さっきより、熱い」
そのまま私はベッドに引き倒され、タオルケットを剥がされた。
「電話のときの顔、綺麗だった」
「やめて、そういうこと……」
「やめない。だって……あの声、俺だけのものじゃないのが悔しかった」
嫉妬混じりの愛撫は、やさしさと独占欲を織り交ぜた複雑なリズムで、
何度も私を波のように揺らしていった。
終わったあと、私は息を整えながら天井を見ていた。
愛と裏切り。
快楽と罪悪感。
官能と現実の狭間で、私は確かに、女としての命を取り戻していた。
(もう引き返せないかもしれない……)
けれど、そう思ったその瞬間、もう一度スマートフォンが振動した。
――着信:夫
私は、まだ余韻の残る身体で、それを見つめていた。
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