出張先で軽蔑している中年セクハラ上司とまさかの相部屋に…朝まで続く絶倫性交に不覚にも感じてしまった私 河北彩花
婚約を控えた主人公が、出張先で出会った年上講師の存在に少しずつ心を乱されていく過程が絶妙に描かれる。映像の美しさと役者の表情が深い余韻を残す一本。
【第1部】婚約寸前の私と軽蔑していた年上講師──安全な恋愛と退屈な未来のはざまで
間違いなく、あの頃の私は「ちゃんとした恋愛」をしているつもりだった。
仕事もできて、優しくて、飲み会で酔いすぎることもなく、私の話を静かに最後まで聞いてくれる彼。伸びたワイシャツの袖を気にしながら、「そのうち買い替えないとな」と笑う姿を見ていると、この人となら結婚しても大きな波風は立たないんだろうな、と自然に思えた。
土曜の夕方のショッピングモール。
ブライダルフェアの看板を横目に、「まだ早いよね」と言いながらも、ウエディングドレスを着たモデルの写真に視線が吸い寄せられる。そんな私の様子を察してか、彼は少しだけ照れたような顔で、
「貯金、ちゃんと進めないとね」
とつぶやいた。
その言葉に、胸の奥でなにかがふっと温かくなる。けれど同時に、どこかで小さくあくびをしている自分がいることに、気づかないふりをしていた。
そんな安定した日常の中に、あの人はいた。
外部セミナーでいつも壇上に立つ、有名講師の一人。
白髪混じりの髪、年齢不詳の落ち着いた声。実績はすごいらしい。だけど正直、私は彼のことが好きではなかった。
セミナーの合間に飛び出す、女性の容姿をネタにしたような冗談。受講生の発言を少し見下すような皮肉まじりのコメント。
「昭和のオジサンって、まだ絶滅してなかったんだ…」
同僚とエレベーターを待ちながら、私は小さく毒づいたことがある。
そんな彼の地方セミナーに、「アシスタント兼事務局担当」として帯同する話が出たのは、年度末の忙しさがひと段落した頃だった。
「彩花さんなら安心だからさ」
上司はそう言って微笑んだけれど、私にはとても「安心」とは思えなかった。
よりによって、あの人と二泊三日の出張。移動も現地の調整も、ほとんど二人きり。
その夜、彼に出張のことを話したときも、私は半分泣き言のように愚痴をこぼしていた。
「セクハラまがいの冗談ばっかり言う人と、二泊三日だよ? 私、絶対ストレスで胃がやられる…」
彼は笑いながら、私の頭を軽く撫でた。
「大丈夫だよ。彩花、ちゃんとしてるし、変なことされたらきっぱり言えばいい」
「そういう問題じゃなくて…なんか、空気が嫌いなの」
「わかるよ。けどさ、キャリア的には悪くない話なんでしょ? 外部講師と一緒に動いたっていう実績は残るし」
彼はいつも通り、合理的で、やさしくて、正しい。
けれど、「嫌い」という、もっと原始的な感情に寄り添ってほしいとき、こういう正しさがやけに冷たく感じる瞬間がある。
私が投げた感情は、柔らかいボールのまま地面に落ちて転がり、誰にもキャッチされずに暗がりに消えていく。そんなイメージが頭をよぎった。
出張の前日、キャリーバッグを床に広げながら、私はため息をついた。
白いブラウス、タイトスカート、セミナー運営用の資料、ノートPC。
ふと、ワードローブの端にかかった膝丈のワンピースに目が止まる。彼と初めて遠出したときに褒められた、紺色のワンピース。
「それ着てきてくれて嬉しいな」
あの時の彼の声を思い出し、手が止まる。
――あの人の前で、これを着る必要なんてない。
けれど、何となく、スーツやジャケットだけで埋めたくない気持ちがあった。
結局私は、ワンピースをたたんで、バッグの隙間に滑り込ませてしまった。
◇
地方都市の小さな空港を出ると、春先の少し湿っぽい風が頬を撫でた。
待ち合わせ場所には、すでに彼――いや、「先生」は立っていた。
「やあ、河北さん。初出張だっけ?」
スーツのジャケットを片手に持ち、ネクタイを緩めた姿は、セミナーで見慣れた“壇上の顔”とは少し違って見えた。
「…はい。本日はよろしくお願いします」
私は仕事モードの笑顔を貼り付けて頭を下げる。
道中のタクシーでは、仕事の段取りやタイムテーブルについて、淡々と確認が続いた。
セミナーの進行、受付の流れ、アンケート回収のタイミング。
一つひとつの指示は的確で、無駄がない。「仕事ができる」という噂に嘘はないのだろう。
だが、休憩の合間にふと放たれる言葉は、やはり苦手だった。
「最近はさ、ハラスメントだなんだってうるさくてね。冗談も言えたもんじゃないよ」
「女性に気をつかうのも、男は大変なんだ」
そう言って笑う声に、喉の奥で棘が引っかかる。
ホテルに着いたのは、日がすっかり傾いた頃だった。
ロビーでチェックインを済ませ、ルームキーを受け取った瞬間、私は違和感に眉をひそめた。
カードキーの透明ケースに挟まれた紙には、二つの名前が並んでいた。
――同じ部屋番号の横に、「河北」「高村」。
「すみません、あの…」
フロントに駆け寄ると、対応していた若い女性スタッフが申し訳なさそうに頭を下げた。
「大変申し訳ありません。本日、シングルルームが満室でして…ツインルームをお二人でご利用いただく形で手配されております」
「でも、あの、私たちは…」
同じ会社でもないし、ましてや夫婦でもない。そんな言葉は喉元まで出かかったが、うまく形を成さない。
横から、先生が一歩前に出た。
「なに、君の会社がそういう契約で取ってるんだろう。二人でセミナー運営って話だし、経費節約ってやつだ」
「ですが…」
「ベッドは別だし、風呂とトイレもついている。困ることはないよ」
困ることしかない。
心の中で突っ込みながらも、「どうされますか?」とフロントに問われれば、いったん引き下がるしかなかった。
満室。別フロアに空きもない。
瞬時にできる選択肢は、驚くほど少ない。
ツインベッドが並ぶ部屋のドアが閉まった瞬間、空気が少し重くなった気がした。
窓の外には、地方都市の街灯がぽつぽつと灯り始めている。
キャリーバッグをベッド脇に置きながら、私は深く息を吸い込んだ。
「気まずいね」
先に口を開いたのは先生だった。
思ったよりも柔らかい声で、ほんの少しだけ苦笑いが混ざっている。
「…正直、はい」
私はごまかさずにそう答えた。
「じゃあ、ルールを決めようか」
「ルール…ですか?」
「君が嫌がることはしない。これは約束する。鍵も君が持っていていい。風呂に入る順番も、着替えも、全部君優先。どうだろう」
予想していたより、ずっと理性的な提案だった。
けれど、私の胸の中で渦巻いている警戒心は、そう簡単に静まらない。
「…わかりました。その代わり、変な冗談はやめてください」
「それは耳が痛いな。努力するよ」
そう言って笑った彼の横顔は、なぜかセミナー会場よりも人間らしく見えた。
人間らしい、という言葉を選んだ時点で、私の中の何かがすでに揺らぎ始めていたのかもしれない。
【第2部】嫌いなはずの声に身体がざわめく夜──同室になった瞬間から始まった予感と境界線の崩壊
シャワーを先にすすめられ、私はタオルとパジャマを抱えてバスルームに逃げ込むように入った。
鏡に映った自分の顔は、思った以上に強張っている。
メイクを落としながら、私は自分に問いかけた。
――そんなに警戒する必要、ある?
彼は確かに苦手なタイプだ。
けれど、これまでセミナーで一緒になった数回、彼が誰かに乱暴なことをした、という噂を聞いたことはない。
冗談は不快でも、仕事はプロフェッショナル。
フロントでの対応も、あくまで現実的だった。
それでも、同じ部屋に男の人がいる、という事実だけで、いつもより呼吸が浅くなる。
シャワーの音に紛れながら、私はそっと胸に手を当てた。
鼓動が、いつもより少しだけ速い。
部屋に戻ると、先生はすでにベッドの端に腰掛け、ノートPCを開いていた。
白いワイシャツは脱ぎ、グレーのTシャツ姿になっている。そのラフな格好を見て、私は反射的に視線を逸らした。
「おかえり。長風呂じゃないか」
「…すみません」
自分でも驚くほど、声が硬い。
「緊張してる?」
「…少しだけ」
「それなら、仕事の話でもしようか。明日の流れの最終確認」
彼はPCの画面をこちらに向け、スケジュール表を指でなぞっていく。
開始時間、休憩、質疑応答の配分、アンケート用紙の配布。
私はそれに相づちを打ちながらも、どこか上の空だった。
説明の内容ではなく、その声の質に、意識が引き寄せられていた。
低く落ち着いた声。
マイク越しではわからなかった、少しかすれた響き。
部屋の空気を震わせるほどではないけれど、耳の内側を撫でるように届いてくる。
――嫌いなはずの声。
そのはずなのに、なぜか体温がじわりと上がっていく。
不快感とは違う、説明のつかない熱。
「…河北さん?」
「えっ」
「急に黙り込んだから。退屈だったかな」
「い、いえ。ちゃんと聞いてます」
慌てて資料に視線を落とすと、彼が小さく笑った。
「そうやって取り繕うところ、真面目だよね」
揶揄われているはずなのに、その言葉に妙な重みはなかった。
目線を上げると、彼は端正な指先でマグカップをつまみ、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「さっき、ロビーで“セクハラ上司”って顔してたろう」
思わずむせそうになった。
「なっ…」
「バレてないつもりだった? ああいう顔、昔からよくされるんだ」
彼は肩をすくめる。
「安心していいよ。僕は君の上司じゃないし、君の査定にも関われない。ただの“外部のジジイ”だ」
その言い方は、自嘲とも、開き直りともつかないニュアンスを含んでいた。
私は少しだけ拍子抜けして、つい本音が漏れた。
「…わかってるなら、ああいう冗談、やめればいいのに」
「君みたいな真面目な子には、そう見えるだろうね」
「真面目なこと、悪いみたいに言わないでください」
「悪くなんてない。ただ、君の目は退屈してる」
ぴたりと、言葉が止まった。
心のどこか深いところを、指先で突かれた気がした。
「さっきの話、彼氏のこと」
「…え?」
「電話してただろう。ロビーで。声は聞こえなかったけど、表情は見えた」
そんなところまで見られていたことに、頬が熱くなる。
「彼氏はいい男なんだろう。安定してる。優しい。結婚相手として申し分ない」
「……」
「でも、君は電話を切ったあと、ほんの少しだけ、つまらなさそうな顔をした」
思わず、ベッドの上で背筋を伸ばした。
自分でも気づいていなかった表情を、他人に指摘される居心地の悪さ。
ただ、否定しようとしても、うまく言葉が出てこない。
「違う、とは言えない顔だね」
先生はそう言って、ベッドのヘッドボードに背を預けた。
薄いTシャツ越しに見える胸の起伏が、夜の照明に柔らかい影を落としている。
視線を逸らそうとして、かえってそこに釘付けになる。
「君みたいなタイプはね、安心な未来に向かってまっすぐ進もうとする。でも、どこかで“自分はもっと違う女になれるんじゃないか”って、うっすら思っている」
「そんなこと…」
「考えたこともない?」
問いかける声は穏やかなのに、逃げ道を塞ぐような静かな圧がある。
私はゆっくりと目を閉じた。
頭の中に浮かぶのは、ショッピングモールのブライダルフェアの看板。
白いドレスの裾を踏まないように歩く、知らない花嫁の姿。
あのとき胸に浮かんだのは、「羨ましい」という感情だけだっただろうか。
「…たまに、思ったことはあります」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「どんなふうに?」
「このまま“いい人”と結婚して、仕事も続けて、子どもが生まれて…っていう未来が、ちゃんと幸せなんだろうな、って頭ではわかってるのに。胸のどこかが、まだ余白を求めてる感じがして」
言葉にして初めて、自分の中のざらつきが輪郭を持った。
先生はしばらく黙って私を見ていたが、ふっと目を細めた。
「余白、か。いい表現だね」
「……」
「君が今いちばん怖がってるのは、僕でも、同じ部屋で過ごすことでもない」
「じゃあ、何なんですか」
「“余白”に飛び込める自分が、本当はどこかにいるんじゃないかって気配だよ」
その瞬間、部屋の温度が一度上がったような錯覚がした。
エアコンは何も変わっていないはずなのに、肌の表面にじんわりと熱がまとわりつく。
沈黙を破ったのは、先生のほうだった。
「怖い顔をしているね。攻めるつもりはないんだ。ただ…」
「ただ?」
「君が自分で決めたことなら、余白に踏み込むのも悪くない」
そう言って、彼はベッドから立ち上がった。
距離が一歩、二歩と縮まる。
床の軋む音がやけに大きく響いた。
「ここから先、何かをするかどうか、僕は決めない。決めるのは君だ」
彼はベッドとベッドの間で立ち止まり、両手を軽く広げて見せた。
「やめてほしいなら、今すぐバスルームにでも逃げればいい。鍵は君が持っているんだし」
言われて初めて、自分の手の中に鍵カードが握りしめられていることに気づいた。
――逃げることは、できる。
けれど、逃げるという行為そのものが、「余白の手前で引き返す自分」を突きつけてくる気がした。
何も起きない安全な夜。
明日、何事もなかった顔でセミナー運営をし、出張から戻り、彼氏に「おつかれさま」と抱きしめられる未来。
それが正しいのだ、と頭の中の“常識”がささやく。
同時に、「正しいだけの夜」を選び続けた先に、自分はどんな顔をしているのだろう、という想像が、胸の奥を締め付けた。
「河北さん」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
先生の瞳は、セミナー会場で受講生を見渡すときの鋭さではなく、どこか試すような温度を宿していた。
「君の人生の責任は、君にしか取れない。だからこそ、“嫌悪”も“欲望”も、自分で選べ」
嫌悪と欲望――その二つの言葉が、一瞬、同じ重さで胸に落ちた。
気づけば私は、ベッドの上で膝を揃えたまま、僅かに前のめりになっていた。
彼が一歩、近づく。
距離は、手を伸ばせば触れられるほどに縮まった。
部屋の時計が、静かに時を刻む。
心臓の鼓動が、それに追いつこうとしながら、少しずつ速くなっていく。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、鍵カードを握る指先に力を込めたまま、ほんの少しだけ、顎を上げた。
――逃げなかった。
それが、その夜のすべての始まりだった。
【第3部】朝焼けのホテルで揺れる指輪──壊したのは恋人か、それとも「いい子」のふりをした私自身か
カーテンの隙間から差し込む薄い光で目が覚めた。
ぼんやりと天井を見つめる。
いつもの寝起きよりも、身体が重い。
肩から背中に広がる鈍い疲労感と、足先にまで残る微かな痺れ。
シーツはところどころ皺になり、毛布は足元の方へ追いやられている。
夜どんなふうに眠りについたのか、はっきりと思い出せない。
ただ、照明を落とす前、耳元に落ちた低い声の響きと、熱くなった呼吸の感触だけが、断片的に蘇る。
隣のベッドに目を向けると、そこには誰もいなかった。
枕は少しだけ窪んでいる。
そこにあったはずの体温は、すでに消えかけていた。
時計を見ると、朝の七時を少し回っている。
セミナー開始までは、まだ余裕があるはずだ。
けれど、ベッドから起き上がるまでに、妙に時間がかかった。
身体だけでなく、心が重たかった。
洗面台に立ち、鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、クマを隠しきれない目と、血色を失った唇。
しかし、よく見ると、目の奥には見慣れない光が宿っていた。
――誰?
昔、学生の頃、夜更かしをして朝日を浴びたときの顔に少し似ている。
何かをやらかしたあと、罪悪感と興奮がまだ身体の中で混ざり合っているような表情。
指先に視線を落とす。
右手の薬指には、まだ指輪はない。
けれど、そこに何かが乗るはずの未来を、私は具体的に思い描いていた。
彼と選ぶであろうシンプルなリング。
結婚式の写真。
家族としての生活。
そのすべてのイメージの上に、昨夜の断片がべったりと張り付いて剥がれない。
シャワーを浴びても、完全には流れ落ちない感覚が肌に残る。
熱いお湯でしっかりと身体を洗っても、
「きれいになった」という実感よりも、「きれいにしようとしている自分」を客観的に見ているもう一人の自分がいる。
――何をしているんだろう、私は。
その問いは、責めるようでいて、どこか冷静だった。
昨夜の自分を反芻するたび、嫌悪感と同時に、信じられないほど鮮やかな生々しさが蘇る。
自分で選んで、手を伸ばした瞬間。
拒まなかった温度。
飲み込んだ言葉。
部屋に戻ると、先生はスーツに着替え、ネクタイを結んでいた。
見慣れた“セミナー講師”の姿に戻っている。その変わり身の早さに、胸の奥がざわついた。
「おはよう」
「…おはようございます」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「朝食、どうする? 会場入りは九時でいいから、余裕はあるけど」
「下のレストランに行きます」
「そうしようか」
私たちは、何事もなかったかのように会話をした。
昨夜のことに触れない、という暗黙の了解が、部屋の空気に薄く漂っている。
その距離感が、かえって現実を鋭利に際立たせた。
エレベーターの中、朝食会場までの短い道のり。
私はふと、彼氏のことを思い出した。
まだ寝ているか、それとももう起きてニュースアプリでも開いている頃だろうか。
いつも通りの時間に、いつも通りに起きて、
私がいないことに少しだけ寂しさを感じながらも、「仕事だから」と納得してくれているはずの人。
レストランでコーヒーを口に運びながら、私はポケットの中でスマホを握りしめた。
画面には、深夜に届いていた彼からのメッセージが並んでいる。
『着いた? 長旅おつかれさま』
『変な人に絡まれてない?笑』
『ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだよ』
昨日の私が返さなかったメッセージたち。
それを読んでいる今の私は、何者なんだろう。
「彼氏から?」
先生の声に、スマホを置く手が少し震えた。
「…はい」
「いい人なんだろうね」
「はい。いい人です」
少なくとも、私よりずっと真っ直ぐで、ちゃんとしている。
「罪悪感、ある?」
ナイフとフォークの触れ合う音に紛れて、その言葉が落ちてきた。
私は一瞬、耳を疑った。
「…あります。そんなの、当たり前です」
「そうだね」
先生は、あっさりと同意した。
責めるでも、慰めるでもない声色だった。
「でもね、罪悪感があるからといって、昨夜の選択が“間違いだった”とも限らない」
「正当化しないでください」
「正当化じゃない。分析だよ」
分析――その言葉に、仕事モードの自分が顔を出す。
データを並べ、原因と結果を整理し、意味づけを行うときの思考。
今、解剖台に乗せられているのは、自分の感情だ。
「君は、“いい人でいなきゃ”という物語の中で生きてきたんだと思う」
「物語…?」
「いい子でいること。期待に応えること。失望させないこと。その物語の中で、君はとてもよくやってきた」
「皮肉ですか」
「いや、本心だ。ただ、その物語の中には、“君の欲”がほとんど書かれていない」
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
「……」
「昨夜、君はその物語から少しはみ出した。いい人の恋人でも、真面目な社員でもない、“ただの女”として、自分の身体と心がどう反応するかを確かめた」
その言葉に、顔から血の気が引くのを感じた。
同時に、どこかで認めてしまっている自分もいる。
あの瞬間、選んだのは私だ。
彼でも、状況でもない。
「もちろん、それで誰も傷つかないなんて言わない。君がこの先、彼に何を話すか、話さないか。それによって起きることもあるだろう」
「やめてください」
思わず、声が震んだ。
「そんなふうに冷静に言われると、本当に最低な人間になったみたいで」
先生はほんの少しだけ眉をひそめ、カップをソーサーに置いた。
「最低かどうかを決めるのは、僕じゃない。君自身だ」
その言い方は冷たく聞こえるはずなのに、不思議と突き放された感じはしなかった。
代わりに、「判断を外に委ねることを許さない」という厳しさだけが残る。
「一つだけ言うとすれば」
先生は続けた。
「君の中に“そんな女にはなりたくない”という軽蔑が、もともとあったはずだ。浮気する女、流される女、欲に負ける女。君は彼女たちと自分をきっちり区別してきた」
「……」
「昨夜、君はその境界線のこちら側に立ってはいられなくなった。そこから見える景色がどんなものかを、知ってしまった」
コーヒーの苦味が、喉の奥で重く広がる。
軽蔑していた存在の中に、自分が含まれてしまったことを認めるのは、想像以上に苦い。
「でもね、河北さん」
先生は少しだけ声を和らげた。
「それを経験したからといって、君のすべてが“ふしだらな女”に書き換わるわけじゃない」
「……」
「一度でも境界を越えたからって、人間の価値がゼロになるわけじゃない。むしろ、自分の中にある“嫌悪”と“欲望”を同じテーブルに座らせて、初めて見えてくるものだってある」
それが何なのか、私はまだ言葉にできない。
ただ、昨夜の自分を“なかったこと”にすることだけは、できないと感じていた。
セミナー会場に向かう車の中、先生は仕事の話しかしなくなった。
マイクのチェック、資料の配布順、登壇時間。
プログラムは予定通り進み、受講生たちは真剣な眼差しでメモを取る。
先生は相変わらず、少々棘のある冗談を交えながらも、内容の濃い講義を展開していく。
私は受付カウンターの後ろで、その背中を遠くから見つめていた。
あの夜の彼と、今、壇上に立つ彼は、まるで別人のようでありながら、一本の線で繋がっている。
軽蔑と興味と戸惑いが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合う。
―私は、何に惹かれたのだろう。
年上の男の色気?
自分を試すような言葉?
それとも、「いい子の物語から抜け出してみないか」という誘惑そのものに、取り憑かれていたのだろうか。
出張の最終日、夕方の便で戻る空港で、先生はゲート前のベンチに腰掛けながら言った。
「ここから先は、君の世界だ」
「どういう意味ですか」
「僕はまた、どこか別の街でセミナーをして、別の誰かに嫌われたり好かれたりする。それが仕事だからね」
「……」
「でも、君は帰った先で、自分の“物語”をどう続けるかを決めなきゃいけない」
彼はポケットからタバコを取り出して、空港の喫煙所の方を顎で示した。
「ちょっと行ってくる。君はここで待っていて。…ああ、そうだ」
立ち上がりかけて足を止めると、ふとこちらを振り返る。
「君の彼氏は、多分いい男だ。大事にしたほうがいい」
「わかってます」
「その“わかってます”の中に、昨夜の君もちゃんと含めてやんなさい」
そう言って、彼は人混みの中に紛れていった。
私はベンチに座ったまま、膝の上で指を組んだ。
スマホを取り出し、彼氏の名前をタップする。
呼び出し音が、やけに長く感じられた。
『もしもし? おつかれ。今、空港?』
聞き慣れた優しい声。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
「うん。今から飛行機乗るところ」
『どう? 大変だった?』
私は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
何を、どこまで、どう話すべきなのか。
その判断を迫られていることを、はっきりと自覚する。
罪悪感は消えない。
昨夜の自分を許せるわけでもない。
それでも、あの夜の私を“なかったこと”にしてしまえば、私はまた、都合よく編集された「いい子の物語」の中に戻ってしまうだろう。
――それで、本当に生きていけるのか。
喉元まで出かかった言葉を飲み込みながら、私はとりあえず、仕事の話だけをゆっくりと伝えた。
セミナーが盛況だったこと。
トラブルはあったけれど、何とか乗り切ったこと。
彼は「すごいじゃん」と言って笑い、私の頑張りを当たり前のように褒めてくれた。
電話を切ったあと、胸の奥に残ったのは、安堵と苦さが混じり合った灰色の感情だった。
まだ答えを出せないまま、私は搭乗口へ向かう。
機内に乗り込むとき、ふと窓に映った自分の顔は、出張前とは少し違って見えた。
目の奥に宿った光は、褒められるものではないのかもしれない。
それでも、そこには確かに「自分で選んでしまった女」の影がある。
私はシートベルトを締めながら、静かに目を閉じた。
飛行機が滑走路を走り出す振動が、身体の奥まで伝わってくる。
――壊してしまったのは、彼との関係だろうか。
それとも、「私はこうあるべき」という、便利な物語のほうだったのだろうか。
答えはまだ出ない。
ただ一つだけ確かなのは、あの夜を境に、
私は自分の中にある「嫌悪」と「欲望」を、もう別々の引き出しにしまい込むことができなくなった、という事実だけだった。
【まとめ】軽蔑していた“大人の色気”に揺さぶられた夜が教えてくれたもの──いい子の物語から一歩はみ出した私の告白
この出張セミナーの二泊三日は、外から見ればよくある「仕事の一コマ」にすぎない。
優しい彼氏がいて、安定した未来が見えている二十代の女が、
たまたま年上の有名講師と同じ部屋になってしまった、という些細なハプニング。
けれど、当事者である私にとって、それは自分の生き方の根っこを揺さぶる出来事だった。
ずっと私は、「ちゃんとした女」でいることにしがみついてきた。
真面目で、浮気なんてしない。
仕事も恋愛も、周りから見て安心できる選択をする。
そんな自分でいれば、誰も傷つけないし、誰からも責められないと思っていた。
だからこそ、浮気をする女を軽蔑していた。
欲望に流される女、衝動で恋人を裏切る女。
彼女たちを心の中で見下すことで、「私はそっち側じゃない」と安心していた。
――その線を、自分で越えるまでは。
軽蔑していた年上の男の、セクハラじみた冗談。
嫌悪していたはずの声や視線に、身体のどこかがざわついてしまった瞬間。
同室になってしまった夜、逃げることもできたのに、鍵を握りしめた手を開かなかった自分。
あの夜、私が壊したのは、「いい女」のイメージだけではない。
自分で自分に課していた、「こうであれば安全だ」「こうであれば責められない」という物語そのものだった。
もちろん、その選択が誰かを傷つける可能性から目を背けるつもりはない。
彼氏に真実を話すかどうか、話せなかったことをどう抱え続けるのか。
それはこの先も、私の胸の中に重たい問いとして居座り続けるだろう。
それでも、あの夜を「ただの過ち」とだけ片付けてしまうことは、
今の私にはできない。
嫌悪と欲望。
軽蔑と憧れ。
安全な未来と、余白を求める心。
それらをすべて抱えたまま、
それでも誰かを選び、自分の生き方を選び続けていく。
あの夜の私は、確かに愚かだった。
でも同時に、誰かの物差しでは測りきれない、“私自身”の輪郭を一瞬だけ掴んでいた気もする。
あれからしばらく経った今でも、
ふとした瞬間に、あのホテルの照明の色や、
カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光を思い出すことがある。
そのたびに、胸の奥がきゅっと痛む。
けれどその痛みは、ただの後悔だけではない。
自分の中にある「醜さ」と「欲しさ」を、
もう二度と他人事として切り捨てられない、という覚悟の痛みでもある。
もし、あの夜をやり直せるとしたら――
私は同じ選択をしないと言い切りたい。
けれど、そう言い切れない自分がいることも、今ははっきりとわかっている。
だからこれは、誰かに真似してほしい体験談でも、
自慢げに語る武勇伝でもない。
「いい子」の物語から、一歩だけはみ出してしまった女の、
どうしようもなく人間くさい告白だ。
そしてきっと、
誰の中にも、人知れず揺れている“余白”はあるのだと、
今の私は静かに信じている。




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