夫の上司に犯●れ続けて7日目、私は理性を失った…。 佐々木あき
主人公の女性が、夫との関係に揺らぎを感じながらも、突如現れた上司との緊張した関係に引き寄せられていく過程が、静かな映像美と抑えた演技で丁寧に表現されている。
暴力や過剰な演出ではなく、視線や間(ま)によって生まれる官能。
見る者は、彼女の心が崩れていく瞬間に目を離せなくなるだろう。
ラストに残るのは背徳でも後悔でもなく、「生きている実感」という名の微かな熱。
心理劇としても秀逸で、演技と演出の完成度に唸らされる作品だ。
【第1部】静寂の家に差し込む午後──その視線がすべてを変えた
夫を駅まで送り出してから、私はいつものようにキッチンに立った。
皿の縁を流れる水が、手の甲を這い、冷たさよりも寂しさを残していく。
窓の外では、曇り空の切れ間から陽が差し込み、カーテンが淡く揺れていた。
静かな家。
まるで、呼吸を忘れたみたいに時間が止まっている。
ここ数年、夫とは会話が減った。
仕事が忙しいのは分かっている。責めたいわけじゃない。
ただ、夜、ベッドの上で背中を向け合うたび、
「私、まだ女として見られているのかな」
そんな疑問が、胸の奥に小さな痛みを残す。
昼下がり、玄関のチャイムが鳴った。
その音が妙に大きく響いたのは、部屋が静かすぎたからかもしれない。
ドアを開けると、夫の上司・沢木さんが立っていた。
黒のスーツに、淡いグレーのネクタイ。
外の光を背負って、彼の輪郭が少し滲んで見えた。
「突然すみません、少し書類をお預かりに」
その声は低く、柔らかく、どこか湿っていた。
私は慌ててスリッパを出した。
「どうぞ」
玄関に腰をかがめた瞬間、彼の靴底から上がる革の匂いと、微かな香水の香りが混ざり合い、
心臓が小さく跳ねた。
リビングに彼を通すと、空気の密度が変わった。
いつもより狭く、熱く感じる。
彼が書類を広げ、静かにページをめくるたび、
紙の音がやけに鮮明に響いた。
私の指先が、テーブルの上のカップを持ち上げようとして震えた。
それに気づいたのか、彼はちらりと私の手元を見た。
その視線が、指先を撫でたように感じた。
「ご主人、今日は?」
「出張です。明日の夜まで…」
自分の声が、想像以上に柔らかく、湿っていた。
喉の奥が乾くのに、舌の先だけが熱い。
彼は軽く頷いて、書類を閉じた。
「お忙しいですね、いつも」
そう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その動作ひとつひとつが、なぜこんなに近く感じるのだろう。
玄関まで見送るとき、すれ違いざま、彼の肩が私の腕にかすかに触れた。
ほんの一瞬。
けれど、そのわずかな接触が、皮膚の奥まで火を灯した。
「また改めて伺います」
そう言って去っていく背中を見送りながら、私はしばらく立ち尽くしていた。
扉の向こうに彼がいないのに、
家の中に、彼の体温だけが残っている気がした。
水道の蛇口をひねると、冷たい水音が現実に引き戻してくれる。
けれど胸の奥では、まだ熱がゆっくりと広がっていた。
触れられてもいないのに、どうして。
自分の中の何かが、静かに崩れ始めた気がした。
【第2部】理性の崩壊──誘われる夜に聞こえた心の音
あの午後から数日、私は落ち着かなかった。
沢木さんの残した香りは、もうとっくに消えているはずなのに、
時折ふと、空気の隙間から彼の気配が戻ってくる。
洗濯物を干す指先に、あの視線の感触が蘇る。
皮膚が記憶している――そう思うほど、現実の境界が曖昧になる。
夫は今夜も帰らない。
時計の針が進むたび、家の静寂が重たくなっていく。
私は窓辺に座り、街灯に照らされた植え込みを見つめた。
夜風がレースのカーテンを揺らし、
その隙間から、車のライトが一瞬、白い光を滑らせた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのすぐあとだった。
心臓がひとつ、強く鳴る。
誰だろう、と思いながらも体が先に動いていた。
ドアを開けると、そこに沢木さんが立っていた。
「遅い時間にすみません。今日、近くまで来たので……」
低い声。
背広の襟に付いた雨のしずくが、廊下の灯りを反射していた。
私の喉が、小さく鳴った。
「どうぞ、中へ」
その言葉が出たとき、自分の声が他人のもののように聞こえた。
彼が靴を脱ぎ、ゆっくりと玄関を上がる。
革の擦れる音が、異様に近く感じる。
リビングの照明を落とすと、空気が柔らかく沈み、
静けさが、まるで布のように二人を包み込んだ。
「ご主人、まだ出張中ですか」
「……ええ」
短い返事をした途端、胸の奥に鋭い痛みが走った。
その痛みの正体が、罪なのか、期待なのか、自分でも分からなかった。
沈黙の中、彼がソファに腰を下ろした。
私も反対側に座る。
距離は、手を伸ばせば届くほど。
触れようと思えば、触れられる。
けれど、触れない。その緊張が、皮膚の下で膨張していく。
「この家、静かですね」
「……ええ。静かすぎて、たまに息苦しいくらいです」
言葉が口を滑り出る。
その瞬間、沢木さんの瞳がわずかに動いた。
まるで、その“静けさ”の隙間に入り込もうとするように。
時計の針が一秒ごとに音を立てる。
私の鼓動も同じリズムで鳴っている。
ふたつの音が、ゆっくりと重なっていく。
「柏木さん」
名前を呼ばれた瞬間、
喉の奥が熱くなり、呼吸が浅くなった。
呼び捨てではない。けれど、そこにある響きは、
会社でのそれとは違っていた。
甘く、重く、どこか許されない響き。
私の心の奥で、何かが微かに裂けた。
理性という名の薄い膜。
それが音を立てずに破れていくのを、確かに感じた。
外では雨が降り出していた。
ガラスを打つ音が、まるで遠い記憶のざわめきのように優しかった。
【第3部】夜の記憶──静寂の中で何かが壊れ、何かが生まれた
雨は、夜の屋根をゆっくり叩いていた。
その音を聞きながら、私は窓際に立っていた。
ガラスに映る自分の顔が、どこか他人のように見える。
唇がわずかに震えている。
それは恐怖ではなく、
何かを待っているような、痛みに似た期待だった。
背後で沢木さんの声がした。
「冷えますね」
その声の低さが、空気を震わせる。
私は振り返らなかった。
ただ、その声の温度だけを背中で感じていた。
次の瞬間、ふと照明が落ちた。
部屋の明かりが薄闇に変わる。
雨音と呼吸音だけが残った。
時間の流れが遅くなる。
世界が、音を潜め、息を潜めている。
自分の心臓だけが、
現実と夢のあいだで確かな存在を主張していた。
私は気づいていた。
この静寂の中で、何かが壊れる。
もう、以前の私には戻れないだろうということを。
彼の気配がすぐ後ろにある。
距離はない。
けれど、振り返れば、
すべてが現実になる気がして、目を閉じた。
雨音が強くなった。
空と地面が混ざり合う音。
その混沌の中で、
私は胸の奥の何かが溶けていくのを感じた。
涙なのか、安堵なのか。
わからない。
ただ、静かに笑ってしまった。
笑いながら、頬を伝うものがあった。
――どうして泣いているのだろう。
目を開けると、
ガラスの向こうに街の灯がぼんやりと滲んでいた。
雨が、すべてを曖昧にしてくれる。
罪も、理性も、名前も。
「ごめんなさい」
私は呟いた。
誰に向かって言ったのかも分からない。
けれど、その言葉を口にした瞬間、
身体の奥に重たく絡みついていた鎖が、
ゆっくりと外れていくのを感じた。
夜は深く、長かった。
やがて雨が止む頃、
私は静かにソファに身を沈めた。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込む。
その光の中で、
私は初めて、
「生きている」という感覚を、
自分の肌で確かに感じていた。
【まとめ】理性の終わり、女の始まり──静けさの向こうに見えたもの
あの夜から、私は少しだけ変わった。
夫の前で微笑むたび、
心の奥で何かが波打つ。
罪悪感とも違う。
それは、自分の中にまだ熱があるという確信だった。
誰かに触れられた記憶ではなく、
自分が“感じた”という事実。
それが、私の中で新しい呼吸になっていた。
生きるとは、
誰にも見せない場所で、
少しずつ壊れていくことなのかもしれない。
そして、壊れたその隙間からしか、
本当の自分は見えてこないのかもしれない。
窓の外、梅雨の気配が近づいている。
あの夜の雨の音が、今も耳の奥で響いている。
それは恐怖でも後悔でもなく、
“私”という名前を呼ぶ、かすかな声のように思えた。




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