夫には絶対見せられない白昼の絶叫 君島みお
【第1部】乾いた午後、紹介された「夫婦サロン」──30代主婦・沙也加が扉を開けた理由
「最近、肩こりひどそうですね。いいマッサージ、知ってますよ」
そう言ったのは、家の近くの喫茶店のマスターだった。
名古屋郊外の小さな住宅街にある、昭和の香りが残るその店は、私・**沙也加(さやか)**がひとりでぼんやりしに行ける、数少ない場所だった。
三十代半ば、専業主婦。
夫は営業職で帰りは遅く、子どもはいない。
結婚当初は「ふたりだけの時間を楽しもう」と言っていたのに、気がつけば、彼は仕事とスマホに挟まれたまま、ソファで眠りこけることが増えた。
夜、隣で寝息を立てる夫の背中を見ていると、胸の奥で小さな苛立ちが疼いた。
(私って、もう“女”としては終わったのかな)
そう思ってしまう自分が、いちばん情けなかった。
その日も、マスターに何気なく「最近すぐ疲れちゃって」とこぼしただけだったのに、彼はカウンターの中から紙ナプキンを一枚取り出し、丁寧な字で店の名前を書いてくれた。
「奥さん、真面目そうだから、変なところは紹介しませんよ。
ご夫婦でやってるアロマのお店でね。奥さまも一緒にいるから、女性のお客さんも多いんです」
紙ナプキンには、
「アロマ&ボディケア ル・クレール」
と書かれていた。駅から一つ先の、あまり降りたことのない駅名。
その夜、夫が飲み会で遅くなるとメッセージを送ってきたとき、私はふとスマホを握りしめたまま、あの紙ナプキンの文字を思い出した。
(行ってみるだけ。マッサージなんて、普通のことじゃない)
自分にそう言い聞かせながら、予約の電話をかける指は少し震えていた。
翌週の午後、天気は薄曇り。
駅から少し歩くと、古いビルの一階に、小さな看板が出ているのが見えた。
「アロママッサージ ル・クレール」
ガラス張りの扉の向こうには、柔らかい間接照明と、白いカーテン。
少しだけ高級感があって、でも肩肘張らない空気。
ドアを開けると、やさしいベルの音とともに、落ち着いた低い声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。ご予約の…佐伯様、ですね?」
出迎えてくれたのは、五十代くらいに見える紳士。
きちんとしたシャツにベスト、背筋の伸びた、元サラリーマンだと言われたら納得してしまうような雰囲気の男性だった。
「ここは妻とふたりでやっている小さなサロンなんですよ。どうぞ、こちらへ」
奥へ通されると、白いソファに座っていた女性が立ち上がった。
艶のある黒髪をひとつに束ねた、四十代前半くらいの、美しい人。
女優のように整った顔立ちなのに、笑うとふっと力が抜けるような、親しみのある笑みを浮かべる。
「こんにちは。主人から聞いていますよ。今日はゆっくりしていってくださいね」
その「主人から聞いていますよ」という一言に、胸がどくん、と跳ねた。
(…どこまで、話してるんだろう)
でも、奥さまの笑顔には打算めいたものは感じられなくて、私は深く考えるのをやめた。
カルテに年齢や体調、気になる場所などを書き込みながら、気づけば自分の生活のことまで話していた。
夫が忙しくて、家でひとりでいる時間が長いこと。
肩こりや頭痛だけじゃなく、なんとなく、胸のあたりがいつも乾いているような気がすること。
奥さまは黙って頷き、最後にぽつりと言った。
「頑張り屋さんなんですね。
今日は、頭も心も、全部ここのベッドに預けてください」
その言葉に、ふっと力が抜けた。
【第2部】香りと指先にほどかれていく──夫婦セラピストの手に身を委ねた日
施術室は、思ったよりもずっとこぢんまりとしていた。
淡いベージュの壁に、オレンジ色の間接照明。
棚には整然と並べられたアロマオイルの瓶が、ステンドグラスのように光を反射している。
「最初は私が全身をほぐしていきますね。そのあと、仕上げのオイルは妻に交代しますから」
セラピストの男性──「高村さん」と名乗った──は、そう告げると、
私に着替えを手渡し、そっと部屋を出て行った。
紙ショーツと薄いガウンに着替え、うつ伏せになる。
顔を乗せる穴から床が見え、何もない木目をぼんやりと眺めていると、部屋の空気がふわりと変わった。
深く甘い柑橘の香りと、すっと通るようなハーブの香り。
背中の上に、温かな掌がそっと触れる。
「冷たくないですか?」
高村さんの声は、体温と同じくらい穏やかで、その響きだけで肩の力がほどけていくようだった。
首、肩、肩甲骨。
指が筋肉のすじを確かめるように沈み込み、凝り固まった場所を見つけるたび、そこにゆっくりと圧がかかる。
「…っ、あ…」
自分の口から小さな声が漏れて、私は慌てて唇を噛んだ。
それは痛みというより、ずっとそこに居座っていた重石が、少しずつ剝がれていくような感覚だった。
「ここ、だいぶ頑張ってますね」
「そんなに…ですか?」
「ええ。力を抜こうとしても抜かせてもらえなかった、みたいな張り方です」
そんなふうに言われると、体だけじゃなく、心の奥まで見透かされているようで、顔が熱くなる。
一時間ほど、全身をくまなくほぐされるうちに、私はいつの間にか、浅い眠りと覚醒のあいだを漂っていた。
時間の感覚がゆらぎ始めたころ、耳元でやさしい声がした。
「そろそろ、妻にバトンタッチしますね。
オイルの香り、きっと気に入ってもらえると思いますよ」
気配が入れ替わり、静かに扉が閉まる音がする。
しばらくして、背中の上に、さっきとは違う指先が触れた。
さっきより少し華奢で、肌の上を滑るとき、ふわりと髪の香りが混ざる。
「失礼しますね。冷たくないように、オイル少し温めてありますから」
奥さま──「梨乃さん」と呼ばれていた──の声は、耳の奥に直接落ちてくるような、低めの柔らかさがあった。
背中を流れていくオイルは、さっきよりも甘い香りがした。
柑橘と花のあいだのような、女の人そのものの体温を思わせる香り。
肩から腰、太ももの付け根へ。
指先が滑るたび、皮膚の上に細い線が描かれ、それがじわじわと内側へ染み込んでくる。
「すごく、頑張ってる身体ですね…」
「そんな…普通の主婦ですよ」
「“普通”の主婦ほど、頑張り屋さんなんですよ。
誰も拍手してくれないのに、休むことを許されないから」
声とともに、掌が腰の少し上でとまり、そこで円を描くようにゆっくりと動く。
腰の奥の、普段は意識しない場所が、じんわりと熱を帯びてくる。
(やだ…なに、これ)
自分でも説明できない感覚に戸惑いながらも、もう力を入れて抵抗することができなかった。
「お疲れの方は、腰から下を集中的にほぐすと、全身の巡りがよくなるんですよ。
おしりのあたりも、少し入っても大丈夫ですか?」
「…お願いします」
気がつけば、私はそう答えていた。
紙ショーツのゴムが、指先でそっと持ち上げられ、少しだけずらされる気配。
冷たさと温かさが混ざったオイルが、腰のくぼみから、ゆるやかな曲線を描いて広がっていく。
掌が円を描くたび、呼吸のリズムが乱れていく。
「ん…っ…」
堪えきれずに漏れた声を、自分で聞いてしまう。
恥ずかしさと、どうしようもない心地よさが入り混じって、視界の端が滲む。
「大丈夫、大丈夫ですよ。
気持ちいいときは、我慢しなくていいんです」
耳元でそう囁かれた瞬間、何かのスイッチが音もなく切り替わった気がした。
そのあと、どこをどう触れられたのか、正確には覚えていない。
ただ、身体の境界線が少しずつぼやけていき、自分の輪郭と、他人の指先のあいだにあったはずの「遠慮」や「常識」が、オイルの香りに混ざって溶けていく感覚だけが残っている。
気づけば、喉の奥からこぼれる声が、もう自分のものではないように震えていた。
「…沙也加さん、力、抜けてきましたね」
「はぁ…っ…なんか…頭が、ぼーっとして…」
「それでいいんです。
ここにいるあいだくらい、いい子をやめてしまいましょう?」
その言葉の先に何があったのか──
もし詳しく語ってしまったら、現実よりも安っぽくなってしまいそうで、私はいつも、そこで記憶に蓋をしてしまう。
ただひとつ、はっきり覚えているのは、身体の奥底で長いあいだ眠っていた何かが、静かに目を覚ました瞬間のことだ。
それは「快感」と呼んでしまえば簡単だけれど、
もっと原始的で、もっと個人的な、誰にも見せたことのない「私」の一部だった。
【第3部】もう喫茶店には行かない──それでも、あのサロンに通いたくなる理由
帰りの電車の窓に映った自分の顔は、どこか他人のようだった。
うっすらと紅潮した頬、潤んだままの目元。
駅のホームを歩く人たちは、誰も私の変化になど気づいていないのに、ひとりだけ別世界から帰ってきたような心地だった。
(私、いったい、なにをしてきたんだろう)
そう思う一方で、
身体のどこかが、まだあのオイルの香りを覚えていて、電車の揺れに合わせて、さっきの感覚をそっと反芻していた。
自宅の最寄り駅に着くころには、背中の軽さと、胸のうしろの奇妙なざわめきが入り混じっていた。
その夜、夫はいつものように「疲れた」と言いながらシャワーを浴び、ビールを飲んでから、あっという間に眠ってしまった。
暗い寝室で、彼の寝息を聞きながら、私は天井を見つめていた。
さっきまで、見知らぬ夫婦のサロンで、あんなにも無防備に身体を預けていたこと。
触れられた場所、かけられた言葉。
自分の口からこぼれた声。
どれも現実なのに、夢の断片みたいにぼやけていて、それがかえって現実感を増していた。
(“欲求不満の主婦”って、思われてたんだ…)
マスターがそう言っていた、とサロンの奥さんが笑いながら教えてくれたとき、
私は笑い返しながらも、胸の奥がチクリとした。
図星だったからだ。
でも、図星をつかれたからこそ、私はあのサロンのベッドの上で、初めて素直に「お願いします」と言えたのかもしれない。
翌週、喫茶店の前を通ったが、私はドアを開けなかった。
マスターの顔を見たら、あの日の自分まで全部見透かされてしまいそうだったから。
代わりに、スマホの予約履歴をスクロールして、「ル・クレール」の番号を見つめた。
(また、行きたい…)
それは、ただマッサージが気持ちよかったから、というだけではなかった。
あの場所では、
「妻」でも「きちんとした主婦」でもない、
ただのひとりの女としての自分が、何の説明もなく受け入れられていた。
「女性もね、結局は“気持ちよくなりたい”って来る方、多いんですよ。
期待に応えたくなるじゃないですか」
施術後のお茶を飲みながら、梨乃さんが笑ってそう言ったとき、私はカップの中の琥珀色をじっと見つめていた。
「気持ちよくなりたい」と正面から言葉にされたことなんて、これまで一度もなかった。
それは、結婚してからも、してはいけない種類の欲望のように、心の隅に押し込めてきたものだった。
(あのサロンに通うことは、浮気なんだろうか)
ふとそんな疑問が頭をよぎる。
けれど、誰か特定の相手を好きになったわけでもない。
ただ、自分の身体が、自分自身の手からこぼれ落ちていかないように、必死で掴み直しているだけのような気もした。
答えは、きっと簡単には出ない。
だからこそ、人には言えないまま、私は静かに決めた。
喫茶店には、もう行かない。
マスターの前では、「欲求不満の主婦」というラベルを貼られた自分を演じてしまいそうだから。
でも──
駅から少し歩いたあの小さなサロンの扉だけは、これからも、きっと何度も開けてしまうだろう。
そこには、
誰にも見せたことのない「私」が、
まだベッドの上に横たわって、目を覚まそうとしているからだ。
まとめ──してはいけない願いが教えてくれた、「本当の自分」の居場所
「欲求不満の主婦だから」という一言で、
あなた自身の渇きに、初めて名前がついてしまうことがある。
その言葉は、傷として刺さることもあるけれど、
同時に、長いあいだ見ないふりをしてきた自分の願いに、そっと光を当てるスイッチにもなりうる。
今回の体験談の主人公・沙也加は、
夫との関係が冷えたからといって、誰かを激しく裏切ろうとしたわけではない。
ただ、
触れられたい
見られたい
受け入れられたい
という、ごく当たり前で、けれど口には出しにくい願いを、
「夫婦で営むアロマサロン」という場で、ようやく自分のものとして受け止めることができた。
それが倫理的に正しいかどうかは、
読む人の数だけ答えがあるだろう。
けれど、ひとつだけ言えるのは──
“してはいけない”と教えられてきた感情の中にこそ、
本当の自分の輪郭が、くっきりと浮かび上がることがある、ということだ。
誰にも言えない体験は、ときに人を壊す。
でも、言葉にして、物語にして、
そっと紙の上に置いてみるとき、
それは「秘密」から、「自分だけが知っている真実」へと変わる。
もしあなたにも、
誰にも話したことのない“揺れた夜”があるのなら──
それは、恥ずかしい過去ではなく、
今のあなたを形づくっている、大切なピースのひとつなのかもしれない。
そのピースを、どう扱うかは、
これからのあなた自身がゆっくり決めていけばいい。




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