【第1部】午前11時、封じていた熱が呼吸を奪う──磨かれた床に落ちるヒールの音まで官能
午前11時の都心は、光が硬い。
雲ひとつない空から注ぎ込む陽が、歩道のガラス壁に反射し、私の頬に白く刺さる。
約束の時間にはまだ余裕があるはずなのに、足音は速く、パンプスのかかとが舗道のタイルを小刻みに叩いていた。
ホテルの回転扉を抜けた瞬間、外気と室内の温度差が肌をなぞる。
冷房に冷やされた空気が、露出した鎖骨に沿ってするりと滑り落ち、その冷たさが逆に胸の奥を温かく膨らませる。
大理石の床に落ちるヒールの音が、ラウンジの深い絨毯に吸い込まれるまでの数歩、その間合いがやけに長く感じられた。
彼は、窓際の一番奥に座っていた。
外光を背に、輪郭だけがはっきりと浮かび、目元は影に沈んでいる。
その暗がりの中から、私の姿をすべて見透かすような視線が放たれる。
「来たね」――そう唇が動くのを見ただけで、指先が微かに震える。
向かい合う椅子に腰を下ろすと、革張りのシートの冷たさが太もも越しに伝わり、スカートの裾の奥まで意識が滑り込んでくる。
彼の視線は、会釈を終えた私の胸元から指先までを、ゆっくりと辿った。
白ワインのグラスを差し出され、その液面に映った自分の唇がやけに艶めいて見える。
「今日は…雰囲気が違うね」
その低い声が、胸骨の奥に響き、背中のファスナーを指でそっと押し下げられたような錯覚を生む。
ただ座っているだけなのに、脚の内側にゆっくりと熱が広がっていく。
ラウンジの奥、ピアノの弦を撫でるような音が流れる中、私はもう会話の内容を覚えていない。
ただ、グラスの縁に指が触れるたび、彼の眼差しが私の呼吸のリズムを支配していく。
そして、彼がふと立ち上がり、短く言った。
「部屋で、話そう」
その言葉の「話そう」に含まれた何かが、心臓の奥の鍵を静かに外した。
エレベータの扉が閉じる時、鏡に映った私は、もう出会った頃の妻の顔ではなかった。
ドアが閉まる音は、ラウンジのざわめきを完全に断ち切った。
密閉された空間の空気はわずかに温かく、私の頬を撫でていく。
その温度は、まるで部屋自体が私を知っているかのように、柔らかく、しかし逃げ場を与えない。
キーがテーブルに置かれる音と同時に、彼は上着を脱いだ。
わずかに動くたび、シャツの布が肌に擦れる音が耳に届く。
その音が、視線よりも先に私の胸の奥を刺激する。
私はまだ椅子の背に腰掛けたまま、バッグを抱えていた。
なのに、指先から腕にかけてじわりと汗が滲む。
バッグを床に置くと、指の間の湿り気が空気を変えたように感じられた。
彼が近づく。
歩幅はゆっくりなのに、距離が急速に詰まっていくように錯覚する。
鼻先をかすめたのは、ホテルの石鹸と汗が微かに混じった匂い――それだけで、背筋を伝う感覚がぞくりと波打つ。
「立って」
その一言に、私は躊躇いながらも体を起こした。
重心が変わると同時に、スカートの裏地が太ももに吸いつく。
彼の視線が、そのわずかな動きを逃さず追ってくる。
指が、私の髪の根元に触れた。
頭皮に伝わるその温もりが、背中の奥まで沈んでいく。
やがて首筋に沿って降りてくる指先が、私の呼吸を細くした。
一瞬、時間が止まる――その刹那、心の中で何かが「戻れない」と囁く。
視線を逸らしたくても、彼の目がそれを許さない。
ほんの数センチの距離で見つめられ、口元がかすかに歪む。
その表情に含まれるのは、欲望ではなく、すでに「手に入れた者」の静かな確信だった。
「……続きは、ここでいい?」
そう囁かれた瞬間、私の膝の裏が震え、足先まで血が降りていく。
答えは声にならず、ただ瞬きの速さで応えた。
彼の指が首筋から鎖骨の窪みに降り、そこで一度だけ止まった。
その静止が、触れ続けるよりもずっと熱い。
息を吸うたび、胸の奥の柔らかい部分が彼の存在を押し返す。
なのに、呼吸の度にその押し返しが弱くなり、私は自分が飲み込まれていくのを感じていた。
視線が胸元に落ちる。
わずかに空いたドレスの合わせ目から、下着の縁が見え隠れする。
その“見えてしまうかもしれない”境界線を、彼は指でなぞらず、ただ見つめる。
その見つめる時間の長さが、触れられるよりも濡れる。
「今日は、いつもより……」
彼はそこで言葉を切り、唇をかすかに緩めた。
続きを聞きたくて、私の胸の奥が疼く。
それでも声は出ず、沈黙だけが二人の間を満たす。
窓際に立たされ、カーテンの隙間から昼の光が背中を撫でた。
外の喧騒が遠のく。
視界の端で、彼の手が私の肩口に触れた瞬間、心臓の音が耳の奥で跳ねた。
「……座ろうか」
そう言って、低いテーブルの前のソファを示す。
私が腰を下ろすと、彼は正面ではなく隣に座った。
その距離は、肩と肩が触れそうで触れないわずかな間合い。
けれど、触れないことが、触れるよりもずっと支配的だった。
グラスに残った白ワインを彼が持ち上げ、私の唇に近づける。
液体が舌に触れた瞬間、冷たさと酸味の奥から、別の熱が込み上げる。
視線は逸らせない。
気づけば、彼の呼吸と私の呼吸が同じ速度になっていた。
そのまま、彼は私の手を取る。
指先から手首、そして肘の内側へと辿る動きは、まるで地図を描くように緩やかで、しかし迷いがない。
その確かさに、私の中で何かがほどけた。
彼が囁く。
「このまま……奥まで行こう」
その“奥”の意味を、私はもうわかっていた。
【第2部】視線の奥で崩れる理性──触れられる前に奪われた呼吸
彼の隣に座った瞬間から、部屋の空気が変わっていた。
外の光はカーテンの布地で柔らかく濾され、部屋の奥に滞留している空気はわずかに温く、香水とも違う彼の匂いが重なっている。
その匂いは、理性の境界線にひびを入れる甘い毒のようだった。
彼の指が、私の膝のすぐ上で止まる。
触れてはいない。
けれど、その「触れそうで触れない」距離が、神経を一本一本張り詰め、意識のすべてがその一点に吸い寄せられる。
「ねえ……」
低く落とされた声に、鼓膜が熱を帯びる。
視線が重なると同時に、胸の奥で硬く結ばれていた理性が、ひとすじの糸を解かれるように緩んでいく。
指先がようやく布に触れた。
膝から太ももへ、わずかに滑るその軌跡が、まるで薄氷の上を進むみたいに慎重で、残酷なほど遅い。
動くたび、皮膚の下で脈が跳ね、熱が広がっていく。
「やめたい?」
彼はそう問いながら、答えを待たない。
私の沈黙は、既に許可として差し出されていた。
手のひらが太ももの内側に沈み込み、布の皺が寄る。
その瞬間、背中まで熱が駆け上がる。
呼吸が浅くなり、唇からこぼれる息が、昼間だという事実をかき消していく。
指は、内腿の高みで一度止まり、私の視線を確かめる。
見返した時にはもう、瞳の奥で理性と欲望の境界は溶け、私自身もその溶けた部分に沈んでいた。
「……もっとこっちへ」
その言葉と同時に、腰を引き寄せられる。
服越しに触れ合った腹の温度が、まるで点火の合図のように全身に拡がる。
唇が触れる前から、彼の呼吸が私の口元を覆っていた。
肌と肌の間の、わずかな距離がもどかしい。
そして――唇が重なった瞬間、背筋から腰へかけて、抑えていたすべての熱が一気に崩れ落ちた。
彼の唇が私の唇を離れると、すぐに首筋へ降りていった。
その軌跡は、舌先で確かめるように緩やかで、肌の温度がそこだけ高くなる。
「……震えてる」
耳元で囁かれ、その声が耳殻をかすめた瞬間、腰の奥が小さく痙攣した。
彼の手がドレスの裾を持ち上げる。
冷たい空気が太ももに触れ、思わず息を呑む。
その息づかいが彼を刺激するのか、唇が鎖骨の窪みから胸の柔らかな頂きへと滑ってくる。
薄い布越しに舌が這い、布地が濡れてゆく感覚が、羞恥と熱を同時に膨らませる。
「見せて」
短く落とされた声。
私は抵抗もできずに、肩紐がするりと滑り落ちるのを見ていた。
裸の肌に触れる舌は、柔らかいはずなのに、火のように熱い。
乳先が吸い上げられると、背中が反り、喉から微かな声が洩れる。
その声を、彼はまるで甘い蜜を啜るように受け止める。
膝を折らされ、カーペットの上に座ると、彼は立ったまま私を見下ろしていた。
ベルトの金具が外れる音。
目の前に現れたその形は、布越しでもはっきりと脈を打っていた。
指先で触れる前に、頬に近づけられた熱が私の呼吸を狂わせる。
唇を開き、ゆっくりと含む。
その重みと熱が舌の上に沈み込み、口内の空気が一気に濃くなる。
彼の吐息が高く揺れ、指が私の髪を掴む。
前後のわずかな動きに合わせて、奥まで受け入れるたび、目の奥に火花のような光が散った。
やがて、彼は私を押し倒す。
今度は私が仰向けになり、太腿がゆっくりと開かされていく。
吐息が下腹部をかすめ、次の瞬間、柔らかな熱が私の最も秘めた場所を包む。
舌がゆっくりと円を描き、時に深く、時に浅く潜ってくる。
その度に腰が浮き、喉から抑えきれない声が漏れた。
「もっと……」
自分でも驚くほど素直な声が出てしまう。
彼は応えるように、舌の動きを速め、指が私の奥を探る。
甘さと痺れが混じり、頭の中が白く塗り潰されていく。
正常位で重なると、彼の体温が胸から下腹部まで覆い尽くす。
深く沈み込む感覚が、私を内側から満たしていく。
動きが緩急を刻み、奥に届くたび、背中が反り返る。
体位が変わる。
後ろから抱き締められるように入り込まれ、視界が揺れる。
背中に落ちる彼の吐息、耳元で漏れる低い唸り。
腰を突き上げられる度に、全身が波にさらわれるようだった。
最後は私が上になる。
腰をゆっくりと回すと、彼の眼差しが私を貫く。
その視線が、動きよりも深く私を犯していく。
絶頂は突然で、体の芯がひときわ強く収縮し、視界が暗く染まった。
終わったあと、私たちはしばらく動けずにいた。
汗で湿った肌と肌が重なり、互いの呼吸が少しずつ整っていく。
窓の外の昼の光だけが、静かに私たちを照らしていた。
【第3部】昼の光に溶ける絶頂──飢えと満たされなさの交錯
カーテンの隙間から射し込む光が、彼の肩越しに私の胸元を照らしている。
その白さが、汗で艶めく肌をより鮮やかに浮かび上がらせる。
彼の体重が深く沈むたび、ベッドが小さく軋み、私の奥の奥まで音が届く。
「もう…やだ…」
口では拒むように言いながら、腰は彼を迎え入れるように動いていた。
自分でも、何を止めたくて何を続けたいのかわからない。
ただ、体はすでに彼の律動と一体になり、理性は役目を終えていた。
彼の動きが急に止まり、私の脚を抱え上げる。
膝裏に触れる掌の熱が、次の瞬間の衝撃を予告していた。
腰を一気に押し込まれ、喉から押し殺した声が漏れる。
その深さが、私の中の空洞を完全に埋め、同時に別の渇きを呼び起こす。
唇が耳元に近づく。
「声、我慢しないで」
その言葉が解放の合図になった。
押し寄せる波が何度も私を攫い、背中から頭の先まで痺れが駆け抜ける。
指先がシーツを握り締め、胸は上下し、瞳は焦点を失う。
体位は再び変わる。
私が上に跨がる形になると、視界が彼の瞳と熱で満たされる。
自分の動きで彼の息が乱れるのを感じ、その乱れが私の昂ぶりを加速させる。
腰を前後に揺らすたび、奥から甘い疼きが湧き上がり、乳先まで熱が伝わる。
「…もう…」
自分の声が甘く濡れているのがわかる。
彼の両手が私の腰を強く掴み、動きが制御される。
その瞬間、全身が硬直し、次いで波のように緩み、何度も断続的な余韻が押し寄せた。
気づけば、私は彼の胸に倒れ込んでいた。
昼間の光はなお白く、汗で湿った私たちの肌を滑っていく。
心臓の鼓動が耳の奥で重なり合い、外の世界が遠くなる。
しばらくの沈黙の後、彼が笑う。
「…まだ終わってないよ」
その言葉に、眠りかけていた奥の熱が再び目を覚ます。
昼下がりのベッドは、もう一度、私を深く沈ませる場所になる――。



コメント