あの夜の匂いは、いまだに私の記憶のどこかに沈んでいて、ふとした拍子に蘇る。湿った草の匂い、焦げた炭の香り、そして、誰かの肌が熱を持つときの微かな甘さ。
大学最後の夏、私は友人たちとコテージを借りて、小さな逃避行のようなバーベキューパーティに参加した。大人数のざわめきの中、私はひとり、遠くへ行く自分の未来を、どこか他人事のように眺めていた。誰もが、もう少しで手放してしまう何かを惜しむように、深く酒を飲み、笑い、夜を濃くしていた。
彼の名をここでは書かないけれど、初めて視線が合ったとき、私は理由もなくこう思ったのを覚えている。
——この人と、何かが起こるかもしれない。
人懐こい笑顔。だけど目だけが、何かをこらえているように静かだった。口数は少ないのに、隣にいると妙に落ち着いて、でもどこか不安になる。私はあえてふざけてみせたり、誰かとわざと距離を詰めたりして、彼の表情を確かめるようなことばかりしていた。
夜が深まり、場が緩んでいくと、話題はやがて恋愛や身体の話になった。誰かが笑いながら冗談めかして触れた下ネタに、私は笑いながらも、胸の奥がひどく熱くなった。こんな空気の中にいたら、きっと誰だって、正しくあることに飽きてしまう。
それでも私は、誰でもよかったわけじゃない。ただ、彼だった。
酔った誰かに腕を取られ、お姫様抱っこの体勢で騒がれる中、私は頭のどこかで冷静に考えていた。今の私が欲しいのは、優しさじゃない。心配されることでもない。ただ、私を女として見てくれる誰か。その熱を肌で感じたい。それが、彼であってほしかった。
そんな私の欲を見透かしたように、彼は目を伏せたままそっと言った。
「ちょっと、外、行こうか」
「……うん」
それだけで、空気が変わった。
コテージの裏手にあるテラスに出ると、星がにじんでいた。私はポケットに忍ばせておいた日本酒のミニボトルを取り出し、彼に手渡した。
「最後の夏なんだし、もうちょっとだけ付き合ってよ」
「…そっか。遠く行くんだよね」
彼の声は少しだけ淋しそうで、それが私の背中をそっと押した。
どちらからともなく座り、言葉が途切れるたびに酒を口にした。彼は、しばらく誰とも付き合っていないと言った。私は、冗談めかして聞いた。
「じゃあ、最近……してないんだ?」
彼は少し黙った後で、
「うん。……でも、君の声とか、笑い方とか……なんか、変な感じになる」
その言葉に、鼓動が早くなったのが自分でも分かった。けれど逃げずに、私は彼の膝に手を置いた。
「変な感じって……どんな?」
彼が黙ったまま、私の手をそっと握った。そのまま私の頬に触れ、髪を耳の後ろにかけて、目を逸らさずにキスを落とした。
最初のキスはとても静かだった。けれど二度目からは、何かがほどけるように熱を帯びて、唇と舌が濡れて絡んだ。彼の手が私の背中に回り、ゆっくりとシャツの裾をまくりあげる。指先が肌に触れた瞬間、びくりと震えた。
「冷たい?」
「ううん……熱い、の」
私の声がかすれると、彼はそっと笑った。ブラのホックが外れる音が、夜に小さく響いた。
彼の手が胸に触れたとき、私は目を閉じた。指先が、まるで迷うように乳房をなぞり、指の腹で乳首をゆっくりと撫でる。息が漏れてしまい、慌てて手で口を塞いだ。
「……声、出ちゃうね」
「出していいよ。ここなら誰もいない」
その言葉に、理性が音を立てて崩れた。
彼は私のスカートをそっと持ち上げ、パンティ越しに触れてくる。すでに濡れていた自分に、自分で驚く。彼が指を滑らせるたび、熱が上がっていく。奥の奥がきゅうっと締めつけるようで、何度も脚が震えた。
やがて、彼は私の中へとゆっくりと入ってきた。最初は怖くて、でもその熱と太さに包まれた瞬間、身体の奥が甘く溶けていった。
動くたびに、身体の芯がかき混ぜられる。
ゆっくり、深く。
苦しいくらいの快楽が、波のように押し寄せて、私は彼の肩に爪を立てた。
「…好きとか、そんなのじゃなくて」
「うん、わかってる」
「でも、今だけは」
「…俺も」
何度も重ねて、何度も名前を呼びそうになって、でも呼ばなかった。
声をあげてしまった時、私はもう戻れない場所まで来ていた。
朝、薄明かりの中で目を覚ましたとき、彼の腕が私を抱いていた。現実の匂いがゆっくりと押し寄せてくる。これは夢じゃない。でも、日常には戻れない、ひとときの狂気だったのかもしれない。
「……起きてる?」
「うん」
「……昨日のこと、後悔してない?」
私は、少し考えてから答えた。
「ううん。むしろ、夢だったらって思ってる」
彼は笑って、小さく囁いた。
「じゃあ、また夢、見に行こうか」
その約束は果たされることはなかった。
けれど、あの夜の熱と、あの瞳だけは今も、胸の奥でくすぶっている。
ひと夏の、夢のような、透明な衝動。
私の心と体に、ずっと残っている。



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