目を閉じたら、あなたの手のぬくもりだった──昼下がり、罪を知りながらも…
「なんか今日、空が高いね」
秋の風が揺らしたカーテン越しに、彼がそう言ったのを、私は紅茶のカップを持ったまま笑って聞いていた。
ユウくんの声は、いつも通り穏やかで、いつも通り軽やかで、…でもその日だけは、なぜか心に沈んだ。
幼稚園の送り迎えで顔を合わせるようになって、もう2年近くになる。
「アイさん、今日も綺麗ですね」なんて、ちょっと冗談めかして言う彼に、私はいつも笑って「ありがと」って返していた。
お互いの子どもが同じクラスで、家も歩いて5分。
彼の奥さんは市役所勤務で多忙で、我が家の主人も仕事ばかり。
……それはつまり、お互いの“すきま”を知っている、ということだったのかもしれない。
「もう一本、飲んでく?」
「うん、もらっちゃおうかな」
そう言って差し出した私の指先に、彼の手がふれた。
ほんの少しの時間、指と指が触れただけ。
でも、身体の内側で何かが“はじける音”がした。
私は笑ってごまかし、彼もすぐに視線をそらした。
──その沈黙が、私の心に火をつけてしまったのかもしれない。
リビングの空気が静かになって、カップを持ったまま座った私の横に、ユウくんが腰をおろした。
「…あのね」
彼の声が、いつもより低く、かすれていた。
「……今日、なんか、アイさんのこと、すごく綺麗に見えた」
「え……」
「ごめん、変なこと言ってるよね」
「……ううん」
私は、首を横にふることしかできなかった。
心臓の音が、すぐ隣の空気まで揺らしている気がした。
「……だめだよね、こんなの」
「……わかってる。でも……」
手が、そっと私の頬に触れた。
その指がふれると同時に、私の目の奥にある理性が、ゆっくりとほどけていく音がした。
唇がふれあったとき、私は自分のなかに潜んでいたもう一人の自分に、気づかされた。
「こんなこと、ずっと、望んでたんでしょう?」って。
ユウくんの手が、私の腰をそっと抱き寄せる。
そのぬくもりが、どこまでも優しくて、でもどこまでも罪深くて、
私はただ目を閉じた。
シャツのボタンがひとつ外れるたびに、心の奥に張りつめていた“いい妻”の仮面が、音もなく剥がれていく。
「見ないで…」そう言いながらも、彼の瞳のなかに映る自分を見ていたかった。
スカートの奥にふれた指が、布越しに私を探る。
「……熱いね」
彼の声が、息のように私の耳たぶをなぞる。
その瞬間、自分がどれほど渇いていたのか、思い知った。
カーペットの上に倒れ込んだ私の脚に、彼の掌が這っていく。
太もも、ひざ裏、足首。
指の跡が、皮膚に残るような気さえした。
ショーツの上から感じる彼の愛撫は、じれったくて、切なくて、
「だめ…こんなこと……」
とつぶやく私の声に、彼はそっと「ごめん」と言いながらキスを落とした。
そのキスのやさしさが、むしろ恐ろしかった。
快楽を強要されるより、
優しさで壊される方が、ずっと残酷だから。
やがて、彼の身体が重なったとき、私はもう何も言えなくなっていた。
それは拒絶でも、肯定でもなく、
ただ身体が、心の奥にある欲望に従っていくような感覚。
「ゆっくり、ね……」
そうつぶやく私の声に、彼はそっと頷いた。
腰の動きが深くなるたびに、身体の奥から吐息が漏れた。
日常ではけっして味わうことのなかった、熱と湿度と、震えるような快感。
「……ユウくん……」
名前を呼ぶたびに、罪が深くなっていく気がした。
終わったあと、彼は私を抱きしめて、長く黙っていた。
「ごめんね……でも、ほんとうに、好きだった」
「……私も。たぶん、ずっと前から、気づいてたのかも」
窓の外に、秋の陽が斜めに差していた。
カーテンの影が、私たちの裸の身体をなぞっていた。
「……また、会ってくれる?」
「……うん。でも……」
「うん、わかってる」
彼がもう一度、私の髪にキスをしたとき、
私は“人妻”という肩書きを背負ったまま、
一人の“女”に戻っていた。
心のなかでだけ、私は何度も自分に問いかける。
――あれは、罪だったのか。
それとも、ずっと閉じ込めてきた“私自身”との再会だったのか。
答えはまだ見つからない。
ただ確かなのは、
あの日、あの午後。
目を閉じたとき、そこにあったのは――
あなたの、手のぬくもりだった。



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